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陸軍幼年学校
名古屋陸軍幼年学校とは!

戦後観武臺上から見た名幼跡(現中部管区警察学校)
仙幼47期長澤政輝氏画
 戦前、陸軍幼年学校は将来、陸軍を背負って立つ人材を育成する目的のもと設置された教育機関であった。・・・・・・三年間の勉学の後、予科士官学校、士官学校と進学して陸軍の将校となる・・・・・・当時は陸軍幼年学校の生徒を「星の生徒」と云い、少年達憧れのアイドル的存在でもあった。
 陸軍幼年学校は明治の初めからの歴史があり、名称や設置場所の変遷があったが、明治三十年(1897)年に東京、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本の六ヶ所に陸軍幼年学校を開設した。名古屋陸軍幼年学校は、名古屋市東区長塀町一丁目一の一(現在の東区白壁一丁目)にあった。
 第一次世界大戦後の軍縮で東京以外はいったん廃校になったが、昭和十年(1935)「広島幼年」が復活、他も順次再興され、名古屋陸軍幼年学校は同十四年四月、東京・市ヶ谷で東京陸軍幼年学校西分校として復活(第四十三期生)、翌年三月愛知県東春日井郡篠岡村字下末(現在の小牧市)の新校舎に移った。学校は名古屋中心部から15〜6キロの小牧の東4キロの地で、ちょうど濃尾平野の東北端部で平地が終わり台地が盛り上がり始めるところにあった。
  幼年学校の復活は、将校の増員と資質の向上に迫られたためだったが、全国の秀才少年が集まる精鋭集団だった。入学資格は中学一・二年の終了者で十三・四歳、全寮制で学費脚注)を納入、三年間文武の教育を受けた。
  今母校はない、跡地は中部管区警察学校となり若き警察官の修練の場となっている。当時の面影を残しているのは、当警察学校の裏山・志の丘(名古屋幼年学校当時は「観武臺」)上に残っている観武臺碑、同碑文碑(楠公台座裏)、堅志力行碑のみである。楠公台座裏には次の字句が刻まれている。
観武臺碑等
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観武臺碑等は、昭和43年6月発掘・再建。上記は楠公台座裏に、昭和47年11月に行われたこの三基の碑を並べた再建式典における祝詞の中の一文を刻んだものであ


注:正確には納金。軍人戦死者の子弟は免除、佐官以下の軍人の子弟は半額。昭和20年4月1日、本土決戦に備え幼年校生徒も現役兵籍に編入され、納金は廃止。毎月俸給若干が支給された。)
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