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旌忠神社の「鳥居」と「手水石」を発見

     伊多波刀(いたはと)神社境内


旌忠神社の「鳥居」と「手水石」を発見

 この正月、春日井市在の森茂春班長殿から上村幸一班長殿ヘの新春の賀状で、旧旌忠神社の《鳥居》《手水石》が、春日井市上田楽町(かみたたら)の「伊多波刀神社」境内に存在しているとあった。
 春日井市上田楽町は昔の鷹来工廠があった近くで、伊多波刀神社は、鷹来小学校北側に所在しており、ひょっとするとこの神社には名幼在校時代校外散策等で訪ねた諸氏もいるのではないかと思われる。

 「伊多波刀神社(いたはと)の由緒など」

  ・景行天皇四十二年創立 明治初期郷社であったが後県社に昇格
  ・祭神:高皇産霊命(たかむすびのみこと)、品陀別命(ほんだわけのみこと)、
   息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)、玉依姫命(たまよりひめのみこと)、
   大山祇命(おおやまづみのみこと)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、伊豆之売命(いづのめみこと)
   の七神  ―以上 榊:図書館調べ―
  ・現在神社の「流鏑馬」は春日井市の観光資源の一つ(市の無形文化財)となっている。(Link伊多波刀神社)

                          
 終戦直後名幼校廃校後の昭和25年8月に春日井市に在住されていた余吾 清氏(故人‐当時春日井市市議)が尽力されて伊多波刀神社に鳥居と手水石を含む旌忠神社の施設を運び奉納したことが、同町在住の森氏がふとした機会に同神社の年度報告を見て判った。まさに青天の霹靂、貴重な発見である。
 名幼会として訪ね検分していないが、取り敢えず47期後藤昭君が平成19.1.26日現地を訪れ確認した。



終戦後の旌忠神社施設の変遷 

 
伊多波刀神社「御霊社」記によると
・S25年当時の春日井市市議・余吾 清氏が総代として奔走し、名古屋陸軍幼年学校跡の旌忠神社(当時、土地の人は幼年学校内の靖国神社と云っていたようである)の施設を東海財務局から一括(本殿の台座、灯篭、狛犬、鳥居、手水石など)払下げを受けた。     
・ 伊多波刀神社境内の一角に「御霊社」を創建し、春日井地区の今次大戦の戦没者107柱の御霊を合祀し、遺族会が中心となりお守りしてきた。

 しかし、「靖国御霊社」と称していた社も、長年の風化で傷みが激しく、ご神体は遺族の同意のうえ本殿から離れた別の場所に新築して遷座した。この時、鳥居、手水石を残置し、灯篭、狛犬等は撤去した。以上の変遷の結果、旌忠神社の鳥居、手水石、台座は当初設置された境内東門(駐車場)付近にそのまま現存している。
 
鳥 居

昭和25年8月付・余吾清氏―当時春日井市市議会議員)の銘

手水石 字が刻んであるが読み取れず          後藤君報告

 伊多波刀神社は宮司が常駐せず「田楽神社」「大縣神社」の宮司が兼務していたが、現在は神社総代格の長谷川重明氏が神職の資格を得て勤めている(氏の父親は元春日井市教育長)。
 長谷川氏はS7年生まれ、名幼の歴史教官であった今村文英教官の次男(故人)とは親しい友人であった。また幼年学校の運動会には、招待があり見学を楽しみにしていたとのことである。なお、当時幼年学校を受ける希望者多く自らも受験準備の勉強をしていた矢先に終戦になったと思い出を語っている。


伊多波刀神社の所在地
伊多波刀神社所在地
旌忠神社
旌忠神社
現在の旌忠神社址
旌忠神社跡


追記:
@森班長のお話
終戦後、上村、森、ほか1名の3班長が残務整理で学校に残っていたが、S21.2.21中生徒舎から出火し全焼した。(米兵がストーブ前で裸になってビールを飲んでいる最中に出火)。この火事で残務整理の仕事は鷹来工廠に移った思い出がある。その後、春日井市在の余吾 清氏(故人)がS21年2月に東海財務局の認可を得て(米軍には由緒など不明だろうからと)運び出して一時保管し、落ち着き先を模索していたが、S25年に現在の伊多波刀神社に安置した。
A旌忠神社のご神体
ご神体については、名幼の記録が終戦前後の分が無くなり、どうなったか不明(愛知護国神社へ合祀したか?)。ご存知の方があったら名幼会事務局までお知らせ下さい。