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楽譜・曲
 昔から幼年学校で歌い継がれた「山紫に水清き」「豊栄登る」などのカデットの軍歌は、百日祭に端を発するものが多いようである。そしてその歌詞の中にも「百日(祭)」の字句が多く見られる。また平和な時代はそのときに歌うために「同期生歌」を作った期も多かったと聞いている。

 1期上の名幼46期までの先輩期は、「同期生歌」を作られたかどうかは分らないが、確か百日祭をやって卒業されたと記憶している。そしてわれわれ47期が最上級生になった頃は戦争が激しくなり、毎日のように空襲があり、その合間を縫って本土決戦に備えて壕掘りなど忙しい毎日であった。従って百日祭どころでなかった筈である。ところが我が名幼47期生には立派な「同期生歌」があったのである。戦後明らかになったその事情は次のとおりであった。

 発端は特に公募したわけでなく、手回しのいい連中がいたと見え、自然発生的に同期の中で抜群の文章力の持ち主の大熊昭三君が作詞し、これを音楽に造詣の深かった小出豊君(故人)が父君で当時学習院教授だった*小出浩平氏にお願いし、昭和20年7月に出来上がった。しかしまもなく終戦。小出浩平氏は、当時日光に疎開中の皇太子殿下(今上陛下)の学習院初等科に随行中で、伝えられるところによると出来上がった曲を教え子たちに合唱させたところ、「なかなかいい曲ですね」と殿下が印象を話されたとか。
*小出浩平氏:屋根より高い鯉のぼりの歌い出しで始まる唱歌「鯉のぼり」は氏の作詞・作曲である。
 しかし何分にも終戦直前のことだったので、同期生の大部分はこんな歌があったことを知らずに解散復員しており、この「名幼四十七期生の歌」は幻となっていた。一部の同期生が、小出君がピアノ演奏をしているのを聴いたとの記憶がある程度であった。その後有志が曲譜をパソコンで編曲し、同期生会で披露され一応日の目を見ることになったが、本格的な演奏でないため皆で歌うまでに至らなかった。 
 平成15年は私達47期が名幼に入校して六十年目に当たる。その記念として、この幻の歌を現実の物としようの企画が持ち上がった。そこで元東部方面総監の同期の増岡鼎君の特別な尽力で、陸上自衛隊東部方面音楽隊の演奏でCD化することが出来た。そして八月二十七日の同期生会「夏の集い」の前に完成し当日披露して、高らかに歌い合うことになった。またそれに先立って七月下旬には東部方面総監部を訪問して、音楽隊の生の演奏と歌唱を聴き、幻の「名幼四十七期生の歌」は現実のものとなり感激した次第である。特に作詞者の大熊君は感激一入の面持ちであった。これから同期生相集うたびに歌って、しっかり我が物としようと話し合っている。
 
 曲と歌詞は次のとおりであるが、なかなか勇壮な良い曲である。また歌詞は1番から5番まである堂々としたもので、17歳の大熊少年は随分難しい漢語を駆使しているものだと感心する。

 なお、このCDは余裕があったので、「名幼校歌」「同行進歌」「幼年学校号音ラッパ」他軍歌演習時歌った軍歌等が収録されている。またケースの装丁には仙幼47期の長澤政輝画伯の観武臺上からの名幼跡の俯瞰図が用いられている(本ホームページ「名幼の歴史」の口絵)。


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 名古屋陸軍幼年学校
第四十七期生の歌
昭和20年7月

作詞 大熊 昭三
名古屋陸軍幼年学校
第四十七期生
作曲 小出 浩平
学習院教授
(四十七期 小出豊君厳父)
         
豊栄昇る東(ひんがし)
醜の御楯の喜びに
皇国に享けし身の
嗟々
(ああ)感激の血に燃ゆる
  
神武の剣取り佩きて
詔かしこむ観武臺
何か惜しまむ若櫻
精鋭四十七
(しじゅうしち)期生
想えば遠き織豊の
花かぐはしき橘や 
(いくさ)の神のいつきます 
嗟々 傳統
(でんとう)の血はたぎる

誠忠凝りし尾州原
正気燦たりアッツ島
旌忠
(やしろ)の前にぬかずけば
純直一途百八十
荒波しぶく津の浦や 
こごしき岩根踏みくだき 

聞け高師野の雄叫を
嗟々 若鷲のその如く

      
大空翔くる木曽河畔
辿る古
(ふ)りにし畝傍山
伊吹颪にはばたける
剛健われらの腕は鳴る
菊花床しき学び舎の 
戦友
(とも)よ誓はん一すじの
股肱の光栄
(はえ)を身にしめて
嗟々 団結はいや鞏
(かた)
   
深きめぐみ仰ぎつつ
高き矜持
(ほこり)のその道に
文武の道にはげみなん
宏量満てり百八十
金鶏の光八紘に
いよよ敵なき皇軍の
振武臺頭駒進め 
嗟々 益良夫の意気高し

    
燦然として輝けば
伝統
(つたえ)つがん責(せめ)重く
大義に生きん喜びに
盡忠四十七期生

メロディ(曲)
メロディ(唄入り)

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