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同期生の回顧した山崎軍神
アッツ島の奮戦
名幼における山崎軍神の顕彰

同期生の回顧した山崎軍神

山崎 保代大佐は名幼第10期生

(名幼校史外史に掲載の回顧文 第10期生 伊藤範治氏)
山崎 保代 
アッツ島を守備し、孤軍19日間、敵大軍を震撼し、大義に生き、将兵2,541柱と共に、昭和18年5月29日、玉砕した。北東方面軍司令官から山崎部隊並びに隊長山崎大佐に感状を授けられ、大佐は二階級特進して陸軍中将に任ぜられた。感状に映える偉勲に対し、軍神として讃えられた。
名幼在校時はおとなしく、特に目立たぬ存在であった。字はなかなかの達筆で、考え方も堅実で、歴史地理を得意とした。

同  期: 青木重誠:20師団長・戦病死、
中村正雄:歩兵部隊長戦死・中将
小谷和男:広島連隊区司令官・原爆死・中将
伊藤高秀:野砲兵連隊長・ノモンハン戦死・少将
水島周平:「学科嫌い」の作詞者、
加藤秋勝「歩兵の歌」の作詞者
  
第9期: 鈴木宗作、河辺虎四郎、甘粕正彦
第11期: 鈴木鐵三、多田 穣



アッツ島の奮戦
アリューシャンの戦略的価値


  開戦後劣勢だった米軍の反攻は予想より早く、昭和17年8月にはソロモンのガダルカナル島へ攻撃開始、約半年に亘る激闘の末、昭和18年2月に我が軍の撤退で決着を見た。またガダルカナルへの侵攻にやや遅れてニューギニアへの侵攻も始まり、米軍の反攻は本格的なものとなった。

 昭和17年6月、ミッドウエー作戦の際、北からの米軍侵攻の阻止と、ソ連カムチャッカへの抑えとして、同時に行われた作戦で占領されたのがキスカ島とアッツ島であった。 このの両島はもともと米領土であり、その奪還に面目をかけて、5月上旬遂に米軍が反攻してきた。

 5月12日、アッツ島に米軍の上陸を許し、勇戦奮闘17日ついに玉砕した。これから後マキン、タラワ等々、最後の沖縄に続く島嶼守備玉砕の第1号となった。

 アリューシャン列島は、夏は濃霧、冬は暴風雪が荒れ狂い、およそ世界でも最も軍事行動に不向きな場所である。米国側と同様日本側でも北辺守備の重要性は認めて占領してものの、もてあまし気味な場所であった。

 最初の占領後も、保持方針もふらふらと変わり、18年2月ようやく決まりアッツ守備隊は、、北海道第7師団から分派された歩兵、砲兵、高射砲各1個大隊を基幹とする2,576名(うち海軍基地隊129名)。隊長山崎保代大佐は、山本長官戦死の日、4月18日に着任した。
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アッツ島玉砕 玉砕第1号

 山崎大佐は島の北部ホルツ湾とチチャゴフ湾地区に防備の重点を置き、南部マカッサル湾後方の山地に陣地を求め、海岸は警備にとどめた。

 5月12日、キンケイド少将の第51機動部隊の艦砲射撃の援護のもとに、米第7師団1万1000名が、マッカッサル湾、ホルツ湾地区に上陸した。山崎部隊は水際抵抗を早めに切り上げて山岳陣地に引き篭もった。米軍主力は、マッカッサル湾から峡谷沿いに前進した。

  霧の季節、雪山の肌は霞み、残雪のあるツンドラ地帯である。大気は頬をつきさす寒気に満ち、寒さを経験していない第7師団の兵士は、震え悲鳴を上げた。将兵は次々凍傷にかかり落伍した。弱音を吐いて救援を求めた師団長は即刻交代させられた。

 米軍上陸を知った日本側は、直ちに救援策を決め必要な部署を行ったが、奪回作戦が一挙に成功しなければ、ガ島の戦訓と照らし、ずるずると消耗戦を強いられると見極めた。キスカを含めて撤退させることとした。しかしアッツは敵艦隊が取り巻き、撤退は事実上不可能であった。

 敵上陸以来奮戦した山崎部隊は、北東部のチチャゴフ湾を望む山地に圧迫されてしまった。5月29日、山崎大佐は残存兵力百五十を率い夜襲を行うこととし、北方軍司令官あてにあしご最後の打電をした。

▽本地区隊は残存兵力一丸と成り、敵集団地点に向かって突撃し、以って皇軍の最後を飾らんとす。
▽野戦病院収容中の傷病兵はそれぞれ最後の覚悟を決め、処置するところあり
 非戦闘員たる軍属は各自兵器を執り、陸海員とも一隊を編成、攻撃隊後方を前進せしむ
 共に生きて捕虜の辱めを受けざるよう覚悟せしめたり
▽他に策なきにあらざるも、武人の最後を汚さんことを慮る。英魂と共に突撃せん
▽5月29日決行する当地区隊の夜襲の効果をなるべく速やかに偵察せられたし、とくに後藤平、雀ヶ丘付近

天皇陛下は山崎部隊の奮戦と決意に対して、29日、優渥なるお言葉を賜り、参謀総長、陸相は早速これを伝達するとともに次の感謝電を送った。

「今や最後の関頭に立ち、毅然たる決意と堂々たる部署の報に接し、合掌して感謝す・・・必ずや諸子の仇を復し、屈敵に邁進せん」

山崎大佐は午後9時15分、「機密書類全部焼却、これにて無線機処分す」の一1電を最後に連絡を絶った。その攻撃は29日夜半から30日午後まで続き、29名の捕虜を除いて、全員戦死した。この大戦における太平洋での最初の玉砕である。米軍の損害は戦死550、戦勝1140、ほかに凍傷による戦闘不能者役1500、予想もしなかった大損害であった。

 アッツ島と対照的にキスカ島は何回かの失敗の後、濃霧を利してキスカ湾に進入して、4,819名を残らず収容して無事北千島に帰還することができた。

参考:豊田 襄「太平洋戦争(下)」 伊藤正徳「帝国陸軍の最後」
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山崎部隊の最後   第47期写真集より

「われ凍土の下に埋もれ(アッツ島、山崎軍神部隊の叫び)」----牛島英彦著 世界文化社発行----より抜粋

昭和18年5月12日、米軍アッツ島に上陸。
奇しくも生還した元日本兵の証言や記録と、アメリカ側の記録を照合すると、
 昭和18年5月29日、部隊長山崎大佐は、もはやこれまで----と判断し、残存兵力をもって、最後の突撃を行うことを決定した。夕刻までに、まさに幽鬼そのもののようにして、三々五々集合した将兵は、総数二〇〇名を割っていた。
 ともあれ、残存兵力二〇〇名足らずが、一団となって「万歳突撃」をして、米軍の一斉射撃にあえば、いっぺんい全滅してしまうので、三個小隊が編成された。
 第一小隊は、負傷を蒙っていない無疵の将兵で、十勝岳、後日平、の敵陣を突いて、マサクル湾へ進撃。
 第二小隊は、とにかく歩行可能な重軽傷を負った者で、観武原の敵陣を突破し、雀ヶ丘から、マサクル湾へ出て集合する。
 第三小隊は、非戦闘員が武器をとった軍属の一隊で、予備隊として、第一、第二小隊に後続し、また残存高射砲二個分隊が部隊長と共に、第三小隊中央にあって、29日深夜に出撃した。
 米軍第一線を、うまくすりぬけた山崎部隊は、午前3時25分、エンジニア・ヒルの米軍終結地の奇襲に成功。ウイロビー捜索大隊の隊長ウイロビー、大隊長シドン少佐等を血祭りにあげ、次に戦闘司令所をを狙い、ジェームス・フィッシュを中佐殺害し、丘の上の方を攻撃するためさらに前進した。
 いっぽう右翼方面では、日の出時に一個小隊が丘の頂上附近に達し、米軍第50工兵隊の一部、第7野戦病院、第20野戦戦闘司令所や、後送待ちの第4歩兵連隊の凍傷患者、報道班員などの非戦闘員を含め。雑多な数部隊の兵員を襲い、次々に殺害した。
 不意をつかれた砲兵部隊総指揮官アーノルド准将は、一時は混乱したが、工兵隊や補給部隊、参謀将校らに命じ、必死で日本軍に抵抗し、速射砲が運びこまれるまで絶え間なく手榴弾攻撃を続行した。
 エイプル点において応急に仕立てられた防御線から撃ち出す銃弾と、手榴弾の集中攻撃をモロに受けた突軍山崎部隊のスピードは一時停止した。
 数メートル後退した突撃隊は、再び隊形を立て直すと、さらに狂暴性を増して、頂上目がけて突っこんで来た。戦列を作るため急行した米第50工兵隊の兵士たちと、銃剣や日本刀を振りまわした日本兵の一群とが、真正面からぶつかった。
 このとき、37ミリ速射砲が到着し、日本兵を狙い撃ちにし、突撃隊の出足は止まった。
 日本軍は、米軍の105ミリ榴弾砲陣地を狙っており、目標は、ほとんど目と鼻の先にあったが、ついに重砲陣地に踏み込むことは出来なかった。
 105ミリ榴弾砲と、37ミリ砲が間断なく日本軍へ降り注いで、隊はバラバラになったが、それでも屈せず、数回にわたって突撃は敢行された。この突撃で、大半の日本兵は負傷し、動けなくなった者は己の手榴弾で自決した。
 また、記録によれば、二名の将校と六〇名の兵士は、上方谷間の凹部に陣取り、その日中、アメリカ軍を寄せつけなかった。
 部隊長山崎保代は、最後の突撃を命じ、自らは一群の先頭に立った。
 投降勧告には頑として応じず、ただ死ぬことが目的のような日本軍に向けて、遂にアメリカ軍の砲列が一斉に火を噴いた。絶好の標的になった先頭の部隊長は、全身を蜂の巣のようにされ、「天皇陛下万歳!」と叫ぶ間もあらばこそ、絶命した。

 山崎保代が斃れた地に、アメリカ軍は一九五〇年、次の文句を銅版に彫りこんだ碑を建てた。

アッツ島
第二次大戦  一九四三年
日本の山崎陸軍大佐はこの地点の近くでの戦闘によって戦死せられた。
山崎大佐はアッツ島における日本軍隊を指揮した。
場所 エンジニア・ヒル クレヴシイ峠
第17海軍方面隊指揮官の名により建立した




名幼における山崎軍神の顕彰

山崎軍神像除幕式

 
昭和19年2月8日、13時より予てより制作中の山崎軍神像の除幕式が行われた。
「噫壮烈アッツ島守備隊、正ニ昭和ノ大楠公タリ。大先輩山崎大佐ノ後ヲ継グベキ重任ヲ荷ヘリ。一発ノ弾丸、一人ノ増援モ頼マズ、二千名ノ将兵ガ百名トナルマデ闘ヒ、遂ニ最後ノ秋来ルヤ傷病兵ハ自刃シ、隊長以下敵中ニ躍リ込ンデ行キタルトイフ。今ヤ我等ノ大先輩ハ再ビ母校ニ来ラレ、我等ノ日常ヲ見守リ給フ。我等ココニ橘、山崎両軍神ヲ身近ニ仰ギ愈々以ッテ精進セザルベカラズ。御像ハ菅沼五郎氏ガ心血ヲ注ガレシモノニテ、ソノ御顔温容ノ中ニ厳シキモノ生キ生キトシテ我等ノ胸ヲ打ツ」  (47期生渋谷良次の日記より)

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「山崎軍神部隊」の歌作成

名幼では在校生も参加して「山崎軍神部隊」という軍神を偲ぶ歌を作った。作詞は名古屋陸軍幼年学校、作曲は音楽の田村範一教官である。
   「山崎軍神部隊」

また世の中でもでも軍神部隊の顕彰歌がいくつか作られた。その一つ。
   「アッツ島血戦勇士顕彰国民歌」
「山崎軍神部隊」の作詞については、45期渡辺競さんの記事(名幼校史外史)によれば次のようであったという。
『玉砕の報が伝わるや、鈴木校長の意向もあり記念歌作成の委員に、三年生の45期各訓育班からこの方面に得意な人を含めて各三名が命ぜられた。
  夏休み終了後、全校生徒から曲詞が募集されたが、既に「アッツ島血戦勇士顕彰国民歌」が出ていたために、亜流が多く良作に乏しかった。その中で三年の蓬生錬二さん作の「風嘯きて嵐呼び、波逆巻きて雲と化す」の句が評判になった。これを頭に据えて議論しながら作詞した。結局1番から7番は井草さん、8番は守田さんが書いて提出した。一番骨を折ったのは井草さんであるが、全員自習時間をかなり潰して予想以上に苦労した。
  これを国語教官の僅かの添削で数段立派なものになった。あと音楽の田村教官が作曲して完成したが、いつどんな形で発表したか記憶にない。』

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