オヤジの回想
47期:青田、大塚、中、萩田、福井、外西、八島
「名幼校史」昭和49年発刊
「オヤジって何」
「オヤジ」−−−もう自分自身が“おやじ”といわれる年代になってしまった。
だが、「うちのおやじはなあー」と部下が一杯飲み屋で上司を肴にオダを上げる、息子が「うちのおやじは頑固でねえ」とぼやく、その“おやじ”とはいささか響きが違う。
故今村文英教官は、その著「陸軍幼年学校の生活」の中で、オヤジつまり生徒監について、「生徒からみれば恐くもあり、親しくもあり、ありがたくもある厳父であるとともに、また情深い慈母でもある」と述べられておられる。
三十年も前のことともなると、記憶は断片的であり、薄れてもいるが、まさにこの表現がピタリの印象が残っている。
「村上オヤジ」
希望と誇りで胸をふくらませて入校した最初のオヤジ、「村上オヤジ」(村上重光生徒監殿)に、我々は畏敬の念を持ち、慈父のような信頼感を抱いた。
当時、我々は満十四歳前後の紅顔の美少年(?)揃い、そしてオヤジは満二十七、八歳、今から思うと、オヤジと呼ぶにはあまりにも年代が近過ぎる感じだが、村上オヤジからは、オヤジらしい威厳と威圧を感じた。
が一面、茶目っ気(?)も充分なオヤジだった。訓示の中にもちょっとしたユーモアを織りまぜ、ニヤッと笑いかけられた面影から何ともいえぬ親しみをも感じた。
非常呼集の好きなオヤジ。「全員、剣道衣をつけて道場へ集まれ」−−−眠気まなこへ、いきなり“オメン”を」喰ったこともあったけ。
スタイリスト。体操衣の着こなしも見事で、和服姿はさぞ粋(いき)な・・・といった感じのオヤジだった。
「古屋オヤジ」
村上オヤジが関東軍に移られて、新婚早々(だったそうである)の「古屋オヤジ」(古屋榮市生徒監殿)を迎えた。
我々も入校当時よりも少しは大人びてきた(?)せいか、或いは古屋オヤジが若く見えた(今でも若々しい)せいか、大股の、キビキビした一挙手一投足に、兄貴にも似た憧れと親しみを抱いたものである。
一面、思いやりのあるオヤジ。すべてを抱え込む懐の広さを感じさせるオヤジ。個人的な悩みごとを相談したり、ジックリと諭されて涙ぐんだことも思い出す。
感受性の強い年頃に、人間性豊かな古屋オヤジの訓育を受けた我々は幸せなことで有った。
村上オヤジの時もそうであったが、古屋オヤジの時も、二、三人ずつオヤジの家庭を訪れ、奥さんの手料理を御馳走になった。そこでかんじたオヤジは、非常に家庭的な温か味のあるオヤジだったと記憶する。
そして校内であの威厳からは、とても感じられないフェミニスト(?)ぶりだった。
「山名オヤジ」
さて、戦局もけわしくなり、「山名オヤジ」(山名義郎生徒監殿)を迎えた。我々もすこしずつ生意気になりかけてきた頃で有ったが、山名オヤジの大きな手に、一種の威圧を感じた。
古屋オヤジから山名オヤジへの交代の夜だったろう。非常呼集がかかった。飛び起きると催涙ガスがたかれていたことも懐かしい思い出である。
懐かしい思いでといえば、岐阜県・東濃地方ヘの一〇〇キロ行軍ノ際ノ“美佐野ノ里”事件が、何人かが集まると話題になるが、山名オヤジの怒髪天を衝いたような怒り振りが目に浮ぶ。
陸士の区助タイプのそのままのオヤジ。或る者曰く、「手を振りあげられただけで。並んでいる五、六人が同時にふっとぶほどの勢い。殴られなくても顔がゆがんだ」と。(実際には被害者はなかったが)
峻烈なオヤジだったが、愉快そうに笑われる時のめがね越しの目は柔和そのもの。優しい、子供好きのオヤジを感じた。
「今でもオヤジを思い出す」
三人のオヤジを回想しながら、そうしたオヤジ達から教育を受けた二年あまりの“充実”した時代が再び甦ってくる。
この回想は二訓の何人かが、会合や電話などで折に触れ、離し合ったことをまとめたものです。