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堅志力行之池と
埋立てた現在の跡
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『堅志力行之池』由来
  

貯水池月に作られた水練場(所謂プール)のこと。藤棚(乃木保典縁の藤)のあった狩山戸川(当時の名称「菖蒲川」)沿いにあった。

防火用水を兼ねたプールが建設されることになり、最上級生の44期を中心に45期、46期生徒が十字鍬、円匙を振るい建設に従事した。後にこれを「堅志力行の池」として後輩に伝えることになった。44期生の卒業記念に、碑の表面に在校45期生・46期生と連ねて刻み、裏に「堅志力行之池」と命名。碑を水練場の右側中央(菖蒲川側)に建立した。

その後、観武臺碑が志之丘に再建するに伴い同碑左に連立したものである。言わば名物校生徒の鍛練の礎として象徴的なものであった。
   

※水練場(堅志力行之池)の完成までは、学校周辺の池(入鹿池、大池、落合池等)多く、飯盒炊事など憩いの場であったとともに遊泳演習の訓練の場を提供していた。また下末から小牧の町までの約1キロの地点に「運天」という部落があり、そこに南北に流れる「大山川」という巾約10mくらいの川かあり、ここも遊泳演習の好適地でもあった。これら訓練に励んだ川・地に因んだ総称としての意向も入れ、生徒達が力行した証しの水練場・堅志力行之池と呼称することになった。