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名古屋陸軍幼年学校の沿革
《陸軍幼年学校とは、少年時から陸軍将校を育成するための教育機関であった》
   

  

名古屋陸軍幼年学校(名古屋陸軍地方幼年学校→名古屋陸軍幼年学校)は、明治30年9月に開校、当時は名古屋市長塀町(現東区白壁町)にあったが、大正12年3月軍縮により廃校となった。
第1期生(明治30年入校)から第24期生(廃校の大正12年卒業)まで1200名余の卒業生を輩出した                       

--長塀町時代--
    

※陸軍幼年学校は当時六校あった。同じく軍縮で大阪幼年-は前年の大正11年3月、仙台幼年は同13年3月、熊本幼年は昭和2年3月、次いで広島幼年が昭和3年3月廃校となり東京幼年の1校のみとなった

  
  

昭和前期後半に入り世界の軍事情勢の緊迫化に伴い士官・将校の養成の緊要性から陸軍士官学校、陸軍航空士官学校、及び海軍兵学校の拡充に合わせ陸軍幼年学校の復活拡張の機運高まり、昭和11年3月・広島、同12年4月・仙台、同13年4月熊本そして同14年4月・名古屋、大阪(東京幼年西分校、東分校として)とそれぞれ再興した。

名古屋陸軍幼年学校は昭和15年3月、現在の中部管区警察学校所在地(当時・愛知県東春日井郡篠岡村一現小牧市大字下末−)に復校し、43期生から49期生までの1200名か文武の道に励んだ。昭和20年8月終戦により廃校・解散となる。(当時の在校生は、47期生、48期生、49斯生670名であった。)   

 --観武臺時代--
     
  

幼年学校は中学1年乃至2年終了者で選考試験に合格した13才から14才の少年が入校、全寮制・月謝納入制で3年間の教育を受け予科士官学校→士官学校への途を歩んだ。生徒は当時、通称「星の生徒」と呼ばれていた。