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榊君を偲びて

   後藤  昭   
 去る二月十三日、榊君の訃報を受けた私の眼はそのFAX紙面を疑った。貴兄は昨年来体調回復に努めていたが、今年は、温顔に微笑を浮かべて酒杯を傾ける君と再会するのを楽しみにしていた矢先のことであり、まさに驚天動地。生涯の畏友そして余人をもって代えがたい同期生会名世話人の黄泉の国への旅立ちは、誠に哀惜痛恨の念に堪えない。
 
 吾が名幼47期生会は、先輩期・後輩期共夫々訓育班単位で絆を固めておられるのに比べて、戦後早くから世話人として尽力した桑原行雄君の英断により、当初から一、二、三訓を合併した名実共に一本化された同期生会となり、貴兄はその後の世話人阿部繁君を経て世話人を引き継ぎ、絆を一層重んじ強め深めて今日に至ったことは誠に特筆すべき快挙であろう。
 貴兄が積み重ねられた偉業は枚挙に遑がないが、この機にその一端を回顧しつつ、諸兄と共にその偉功に対し深甚の敬意と謝意を捧げたい。
 先ず、同期生会については、単なる世話人の集まりから、確立した組織の世話人会に改善し、これを主宰して運営の根幹を時宜違わず判断・決定し、会員及び関係者の動静を把握。毎月世話人と在京会員による月例の拡大大世話人会の開催など密なる諸連絡。復員日を記念する『夏の集い』を始めとする諸集会。探訪ツアー等の開催。区切りの年度には記念刊行物の発刊(入校50周年記念文集、入校70周年記念随想集等)などの各種行事・事業を企画し実行した。 
 また川井十郎君を中心とする『句即快乃会』の立ち上げに参画し、平成十六年にはIT社会の進行に合わせ、今村耕一君が主催する47期ホームページ開設に協力するなど、充実多彩な活躍には只々敬服の外なない。 
 特筆すべきは、平成十五年には46期鈴木重雄氏から引き継いで名幼会事務局長に就任、平成二十二年九月の名幼会の終結迄山本卓眞会長を支え、その重責を果たした。その間名幼会運営の中核として、構成各期との連絡調整し、定例の幹事会を開催、毎年の総会開催、会誌『たちばな』の発行(平成二十二年二月発行第71号で絶版)、そして軍神橘中佐顕彰に係る広汎な業務・諸対応等を、担当の各期の諸兄と協力して遺漏なく終えた。
 名幼会終結に当たっては、諸課題解決の為設立された対策委員会にあっても中核委員として、観武臺の史跡保存、名幼関係書籍・資料の収集整理寄贈、関係各界団体等への対応、就中中部管区警察学校、偕行社、長崎千々石の橘神社、板妻の陸上自衛隊第34連隊、長崎・静岡偕行会、国会図書館、靖国偕行文庫、小牧市等との対応も整斉と進められ、夫々その目的を達せられた。
 名幼会として最後の大事業は、『名古屋陸軍幼年学校の跡』碑の建立であった。陸軍幼年学校がこの地に存在した歴史上の事実を、学校の存在した中部管区警察学校の構内でなく、誰でもが普通に見ることが出来る場所に一般の方々の眼にふれる形で設け、後世に伝えられる指標を実現すべく、復興名幼校開校七十周年を記念して、前記名幼校碑を建てるべしとの気運が昂まった。これには在名の44期石原金三氏、46期伊藤昭三氏が中心となって尽力され、山本会長の激励もあり、遂に平成二十二年一月十五日、警察学校前の県道脇に目出度く完成・建立した。この間名幼会事務局長として精力的に協力し名幼会の有終の美を飾った。
 最後に、終戦時六幼年校在校生各期による六幼連絡会は、東幼47期故福田一彌氏が精力的に設立運営してきたが、この六幼連絡会のメンバーとして活躍、更に公益財団法人偕行社の評議員として同法人の運営に貢献されたことを申し添える。
 以上貴兄の有終の足跡を偲びつつ、諸兄と共に改めて崇敬の意を表すると共に、謹んでご冥福をお祈りして筆を擱きます。       
 合掌