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追  悼

たちばな71号 H22.2.2

 

戦後も仲良い同期の桜  櫻井 眞君

 今や、幽明境を異にした櫻井眞君と私とは、お互いに親友同志と称し、60有余年の永きにわたり友情を温めてきた。馬が合うと言うのか、名幼在校中から忌憚なく意見を述べ合っても喧嘩別れもせず、所謂仲の良い同期の桜であった。

 終戦で、彼は群馬の高崎へ、私は山口の萩へと、遠く離ればなれになったのだが、お互いに行き来したり、また手紙や電話で話し合うのが、大袈裟でなく生き甲斐の一つともなっていた。2人は田村、櫻井と呼び捨てで、稚児さんかと訝しむ向きもあるかも知れないが、さにあらず、私的な事柄にはそれとなく触れずじまいだった。ただ最近は、彼が油絵を習得し、私は風景画を所望、一昨年来我が家の玄関を飾っている。もう一つ、今年になって彼はバリアフリーの家屋新築を完或させ、奥様共々生きる喜びを味わっていると、聞かされたことだ。

 死因は肝臓癌だが、私に病状を説明してくれた時、必ず「良い医者でね、本当によく診てくれている」と褒めるばかり。泣きごとや疑心暗鬼は殆ど口にしなかった。一方私は脳梗塞を恚って以来外出が出来ず、見舞にも行けない体であることから、「頑張れ」「元気を出せ」「大丈夫だよ」を電話で繰り返すばかり、今になって慚愧に堪えないでいる。所詮「散る桜、残る桜も散る桜」(良寛)であるから、偽りやごまかしのない天国に行った楼・櫻井君が、「田村!元気を出せ」と激励してくれていると感じる。(田村博男) 

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卵安定供給で大志実現 中西 久二君 

 中西久二君は京都に生まれ育ち〈人の世の清き国ぞと憧れて〉北海道大学予科を経て農学部に進学した。明治新政府は北方より迫るロシアに備えると共に、何年かに一度襲ってくる飢饉に備えて屯田兵を送り込んだが、寒冷地なので旧来の農法は成り立だない。アメリカ式農法の指導育成のためにクラーク博士ら外人講師を招いた。クラークは任期を終えて帰国する時に札幌原頭で「ボーイズ・ビー・アンビシャス」の最後の訓辞を垂れた。 
 
 神と真理に大志を抱けと教えた心を継いだ中西君は、農業に大志を担いて日本の農政を守った。アメリカではミネソタの卵売りが有名だ。戦後の食糧難の時代には卵は貴重品だったが、食糧難が過ぎると卵の価格は暴落して養鶏業は危殆に瀕した。中西君は農民から卵を買い上げて卵液を冷凍保存する液卵公社を作り、卵価の暴落を防いで日本の養鶏業を守った。狂乱物価の時に卵の価格と供給は安定して、物価の優等生と云われたのも中西君が養鶏に大志を抱き続けた志に従って果敢に処置したからだ。

 恐らく盛時には会員数は名幼会隨一と誇ったであろう47・ゴルフ会(会長・西宮生徒監)を作った時にも地味な仕事を引き受けてくれた。残念ながら老齢化のためにゴルフ会の活動も休止状態で二、三の同好者のプレーに限られてしまったが。

 我々は大志を抱いて猛進し続ける根性を観武台で植えつけられた。今、日本に元気がない。名幼会の一員として中西君が日本の養鶏業を守ったように、一業に大志を抱く心意気を後世に伝えなければならない。 (池田和之)       
             

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病院と自宅で長い闘病  丸山 康夫君

 丸山、桑原、青木、森君と私は和歌山出身、帰郷する時は何時も一緒だった。しかし 桑原君、青木君に次いで丸山君が逝き和歌山出身の47期 は2人になってしまった。

 丸山君は昭和23年に和歌山工業専門学校電気科を卒業し、その後NTTに勤務していたが、定年後美浜町へ帰った。彼に会ったのは、平成12年の名幼総会が名古屋で行われていた時、それが直接会った最後であった。

 彼は平成5年に胃がんを手術しており、どうかと思っていただが、この総会には遥々御坊から元気な顔を見せてくれた。

 その翌年に左胸異常で約5ヵ月入院し、その後療養を続けていたが、平成19年7月にレントゲンで右肺上部に曇りがあるとのことで、和歌山呼吸器センター(御坊)に入院した。47期電話連絡網の一部訂正依頼があったのはその時である。

 昨年1月、小川邦夫君の訃報を知らせた時も、「抗がん剤の話があり、少しでも副作用が和らぐように『月のしずく』天然水を送った」ことを喜んでくれた。

 最近は本人の希望によって、自宅療養を続けており、死の前日にも内孫3人、外孫3人に対して「ありがとう」と、意識はハッキリしていたという。正に大往生である。 (佐武 茂)


航空機技術で防衛貢献  筒井 良三君 
 昨年8月5日付けの新聞で筒井良三君が逝去されたことを知った。何時も偕行社で囲碁を打っていたのに、ある日突然見えなくなった筒井君、心配になって電話を掛けたのが3年近く前だったろうか。その時は、癌が発見されて手術を受けたが、成功したのであとは体力をつけるだけとの話だった。筒井君は連絡網の私の後で、メールで知らせていたが、几帳面な筒井君は亡くなった友のご冥福を祈ると必ず返電してきた。それが今度は私が冥福を祈る立場になり、断腸の思いである。

 筒井君は、東京府成城中学校2年から名幼に入校、2訓フランス語で偉才を発揮した。私とは語学が違ったが、同じ東京出身者であり、休暇で一緒に帰ることが多かった。アルバムにも復員前に観武台で一緒に撮った写真が残っている。

 終戦後は全く別の道を歩いた。筒井君は、旧制一高から東大工学部で宇宙航空学を学んだ後、防衛庁技術研究本部に技官として入り、航空機、ミサイルの開発に当たった。超音速機T2の開発は筒井君の功績である。米国に留学中、昭和36年には、留学生を代表してケネディー大統領よりホワイトハウスに招かれた。昭和56年には『アビエーションウイーク』誌に寄稿した航空機技術の記事が認められて、日本人として初めて航空機技術の推進により表彰を受けている。私も何回か防衛庁を訪れて話を聞き、筒井君の仕事の邪魔をしたことがあった。

 平成13年の同期生会 「夏の集い」では、筒井君から「ミサイル防衛」の話を聞いて、耳新しい話に身を乗り出したことが記憶に新しいが、これも過去の思い出になってしまった。

 航空機技術で防衛に全力投球をした筒井君の技術力は、温顔とともに大切にしたいものである   (萩田 威)
   

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