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追  悼

たちばな60号 H16.9.1


同期の健康管理に尽力 廣瀬 壽昭君
 今年2月16日、廣瀬壽昭君が急逝されました。75歳。癌でした。
 
 昭和18年名幼入校以来2年4ヵ月、私達は楽しい事、苦しい事を共にしました。1訓で東園生徒監殿の薫陶を受けた、端正な風貌が目立つ典型的な幼年生徒でありました。意志が強い、中々妥協しない頑固さと見識のある頑張り屋でした。
 
 戦後、慈恵会医科大学に学び勤務医を経験した後、観武台から近い(約8キロ)春日井市二子町に外科医院を開業せられました。その後40年以上の長きに亘り地域医療に努められました。
 
 廣瀬君の人柄を一言で表せば、名幼に学び慈恵会医大を卒業した誇り高き医師でありました。端正なやや強情な武士道的且つ友情に厚い人でした。同期生の健康相談を進んで引き受けてくれました。本当に頼り甲斐ある良い友でした。
 
 昨年初冬、春日井市民病院で直腸癌の手術を受けた廣瀬君を、12月下旬に私と後藤昭君が自宅にお見舞いしましたが、顔色もよく安心しました。この病魔は肺と肝臓に転移しており、近く再手術を受けられるとの話でした。
 
 それが突然の訃報で茫然 としました。廣瀬君、君と接して60年、長いご親交を有難うございました。どうか安らかにお眠りください。(鈴木 健之)




NYで美の探究に専念 東 典男君


 平成16年2月4日、東典男君(旧姓坂中、三重県)が長い闘病の末、ニューヨークの病院で逝去された。
 
 和子夫人からのお便りによれば、一昨年の東京セントラル美術館での彼の個展に際し、急な発病で来日を中止して以来の療養であられた由、誠に残念である。 

 東君は、復員後復金沢の美術学校に学び、更に1955年に渡米し、ロスのシュナード美術学校に進学された。当時としては極めて困難な道を選択され、芸術家としての人生を拓かれた。
 
 59年、同校に在籍していた神谷和子様と結婚され、同じ専門分野を究める夫人の献身的な内助を受けて、画家に専念出来るという恵まれた人生を享受された。
 
 東君の業績の一端を披露すると、作品の出展で受けた各種の賞は13回、内外で開かれた個展は15回、著名な施設に収蔵された作品は27点に達しているとのことである。99年には芸術振興の功により、日本の紺綬褒賞を受章している。
 
 私がニューヨーク在住の東君と再会したのは戦後約30年、名幼45期の柳井誠様のお引合せによる。櫻井様は懐かしき吾が模範生徒殿であり、当時米国金商の社長としてニューヨークに在住、ご活躍であった。当時、ニューヨークJALには同期の小出豊君も居り、休日等には一緒に良く古美術探訪等を楽しまれたと伺っている。その後、両君とは年に一、二回程度の出会いであるが、公私共々大変お世話になった。
 
 東君のお仕事について、私は専門外でありよく判らないが、専ら大判の裸婦の制作に専念しておられた様である。東君の裸婦はとに角美しい。裸婦の顔はみんな、明るく清潔である。背景は全て心地よい単色のパステルカラーであり、暫く彼の作品群の中に佇んでいると間もなく至福の桃源郷に誘われている自分に気付くのである。
 
 これは東君の芸術が素晴らしく、彼の人生も素晴らしく幸せであった事の証であり、和子夫人は「主人は75年の人生を思うままに生きてこられた幸せな人でした。逝く方も見送る方も何も思い残す事も無い・・・」と述べられている。正に男冥利之に尽くるものなし。
東君、安らかに眠られよ。  (川人 明美)



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