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追  悼

たちばな56号 H14.9.10

    

背を向けつつ心の葛藤 倉崎 忠君
 5月初旬、倉崎君の奥様より『たちばな』受領の礼状に添えて、君が4月20目亡くなったとのお知らせがあった。
 
 観武台を離れて以来同期生との交流なく、というかむしろ君は我々に背を向けていた。15年前になろうか、在校時君と同寝室であった外西君の上手な誘いに乗り、君、三溝、田中(故人)、小生共々、富士山麓巡りの小旅行をすることになった。どうせ君は不参だと諦めていたが、珍しく顔を見せ皆を驚かせた。それが君との最初で最後の邂逅であった。
 その時君は、「家内が同期の方々の折角のお誘い、出るのが礼です、と半強制的に追い出された」と言っていたのが記憶の片隅にある。その夜の語らい`翌朝り題違いの「赤旗」購読要請で、君とは遠い存在になるなあ、と寂しい感じを抱いたものである。

 とはいえ、奥様のお話によれば、同期の便りや『たちばな』は封も切らず、さりとて捨てもせず、大事そうに机の引き出しの中にしまってあったとのこと。君の心中の葛藤を垣間見る思いがする。
 やはり繋がる接点があっ心。ご冥福をお祈りします。(榊 龍雄)

       

飲み仲間の同期医学生 島川 勝文君
 02年5月8日夜、島川勝文君の奥さんからの電話で、その日の午前4時ごろ亡くなったと知らされた。10日午後1時、京都での告別式に参列した。享年73。奥さんの話では、今年3月中は元気で開業医としての仕事をしていたが、急に痩せてきたので入院して検査をすることになった。患者たちのため自分入院中の処方を1カ月分しているうち、4月5日に力つきて倒れ、病院に運ばれた。すでに喉頭がんが全身に転移していて末期の状態であったとのこと。
 島川君は、京都東山三条に外科医院を開いてこれで数十年になる。私は京都に行くたびに彼を訪れて飲むという中であった。彼は京大私は東大で、医学部の同期という親しみもあって、家族ぐるみのお付き合いを、戦後ずっと続けていた。亡くなった高知の秋沢潤治君と島川君は、京大医学部の同級生で、学生時代、私を合めて三人で京都の祇園で飲み歩いたのも、遥かな思い出になった。    (小木貞孝)

      

   

日刊工業新聞で活躍した 福井 令治君
 7月11日、福井令治君の逝去の報に接し愕然としました。何故、何故と反芻しながらも、在りし日の元気な君を偲び、哀悼の意を表します。
 寝台戦友としての君とは、毎日それこそ真正面から向き合う仲でした。整理整頓をしながらどんな話をしたのか、茫々の彼方で思い出す術もありませんが、ただ色白でふっくらした頬をちょっと紅潮させ、白い口覆いかけた君の端正なな顔が、鮮やかに思い出されます。君が工業出という異色の士であったことも印象的でした。何事も理詰めで迫る君は、小生の苦手なタイプでしたが、反面、得がたい戦友でした。
 後年「行く道々も異なりて」お互いに接する機会も少なくなりましたが、飯田橋近くの屋台で味噌煮込みを突っつきながら、深夜まで語り合ったのも楽しい思い出です。ここ福岡市内の日刊工業新聞支社前はよく通る道ですが、その都度、君が活躍した日刊工業時代の思い出を新たにしています。

 願わくは、幽冥境を異にしたりといえども、いつまでも「ともに歌わんKDの歌」を。いつまでも寝台戦友だ、以て瞑すべし。 (八島 啓)


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