離校60周年同期生旅行会
ーーー橘中佐墓碑・観武臺・伊勢を巡るーーー
旅行会の概要
○期 日:平成17年9月27日(火)〜28日(水)
○参加者:27名(内夫婦3組)○訪問地:平和公園橘中佐墓碑→名幼跡→(鳥羽泊)→二見が浦→伊勢神宮→おかげ横丁
有竹、井上、今村、大熊、尾崎、梶、川人、近藤、後藤、榊、高橋、
中北、中島、中村、野村、萩田、平井、福冨、山本、横山、吉岡小計 21名 池野夫妻、石川夫妻、釜井夫妻 小計 6名 計 27名
第1日(27日)
名古屋駅・集合11:00→橘中佐墓碑(平和公園)→観武臺(中部管区警察学校)
→(鳥羽シーサイドホテル/懇親会・泊)
酷暑の夏も過ぎ台風一過の9月27日11時、同期生総勢27名が名古屋駅に勢揃いした。
離校60周年「橘中佐墓碑・観武臺・伊勢を巡る同期生会」の幕開けである。27日と28日の2日間の予定で、全行程を岐阜交通の貸し切りバスで回る。
参加者は、遠くは福岡、鳥取などから、そして宇都宮、首都圏、近くは地元名古屋から駆けつけた。流石旅行しようという面々とあって元気一杯である。
旅行の第一歩は名古屋の東、千種区平和公園にある「橘中佐」墓碑から。ここは戦後名古屋復興事業の一環として、市内の寺院の墓地が集約移転した広大な墓地公園にある。陸軍墓地もその一角にあり、従来の地(旧愛知一中:現県立旭丘高校の隣接地)から移転してきた。
最初に「萬国英霊塔」に花を供え一同で拝礼する。周りには夥しい将校、兵士の墓石が林立し、さらには捕虜となって日本でなくなったロシア兵の墓地もある。さらにその後にある「橘中佐」墓碑の前に進み、献花し拝礼する。その後軍歌「橘中佐(上)」を一同で斉唱した。大きな墓碑一面に奥保鞏大将篆額(東宮侍講三島毅撰・日下部東作書)の碑文があり、軍神の生い立ち、略歴、戦死時の有様・人柄などが刻まれているそうである。(盤面かなり読みにくい
橘中佐の墓碑参拝を終え、一路観武臺名幼跡(中部管区警察学校)へ向う。途中車中で持参の弁当を開く。市中は愛知万博の名残の飾り付けなどが少し残っていた。
高速に乗り春日井ICで降りて中部管区警察学校へ着く。榊、尾崎両世話人は校長室へ表敬訪問、その間一同は食堂へ案内されて、お茶を飲み小憩。やがて学校関係者の誘導で構内を参観する。最初に校門で一同揃って集合写真を撮り、以下の順序で構内を廻る。
食堂→旌忠神社跡→藤棚プール跡→武道場(新しい)→御成坂→観武臺上→雄健坂→食堂
観武臺上では校歌を斉唱し往時を偲ぶ。敷地内の施設はすっかり様変わりし、土地の形状で昔を偲ぶ所が大部分となった。特に観武臺は、道は荒れ、かつての桃林にはすっかり樹木が茂り、また構内も予算が無いとかで雑草が目立ち、広い土地を持て余しているようであった。土地一杯フルに活用し活気のあった往時と思い合わせ、懐かしい気持と悲しい気持が交々といったところであった。
観武臺訪問後晴れて車内でビールが配られのどを潤す。3時間ほどで宿泊の鳥羽シーサイドホテルに到着。
6時半より榊幹事の挨拶の後、最遠来の中島君の音頭で乾杯、懇親会が始まる。入れ替わり立ち替わりのスピーチ。皆健康そのものの一同が集ったようであったが、酒が廻るほどに、語るほどに、実はどこどこが悪かったが、なんとか克服したという年寄りの会合に付き物の話題も飛び交った。それにしても元気で事故無く旅行できたことは目出度い。
最後に同期生の歌「名幼47期生の歌」、軍歌、校歌などを歌いお開き。終了後幹事室に有志集合2次会となり、話の続きを再開。年齢を考え酒量も程々にして、翌日に備え10時過ぎに散会就寝した。
第2日(28日)
(鳥羽シーサイドホテル)→二見ヶ浦→伊勢神宮外宮→伊勢神宮内宮→名古屋駅・解散
二見が浦見物の後、外宮を参拝。 続けていよいよ内宮へ廻る。大鳥居前の広場で全員の集合写真撮影。ガイドさんは何台ものカメラを頼まれて暫くシャッター押しで大忙し。この広場は入校後の5月初めて団体で参拝し、そのとき180名が打ち揃って集合写真を撮った場所。広場の真ん中に大きな松がありさぞ邪魔だった筈。社務所で聞いたら樹齢120年とのこと。当時は半分の大きさであったようであるが、その当時の集合写真を見ると矢張り斜め前から撮って木を避けていることが分かった。
手を清め、口を漱いで参道を行く。参道は長く周りの森林は鬱蒼として厳かである。神前に額づく。一段と高くなった場所の神殿は簡素ながら荘厳で身の引き締まるのを覚える。
外宮、内宮とも平成25年の式年遷宮の敷地に一部準備が始まっているようであった。
参拝の後、有名な「おかげ横丁」に回り、昼食を手こね寿司を賞味する。昼食後は三々五々店を冷やかしたり、赤福餅をお茶で賞味したりした。(「おかげ横丁」の店々)
ほぼ計画の日程を消化し、一路無事に16:00頃名古屋駅に到着、お互いの健康を祈り、またの再会を約して散会した。