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「中島道子講師講演要旨」



明智光秀顕彰の道のり:なぜ光秀なのか



・芭蕉が生涯で詠んだ唯一の女性の句「月さびよ 明智が妻の はなしせむ」に登場する光秀の妻「煕子(ひろこ)」。煕子は、「光秀」 の出世のために髪を売って家計を支えたこともあったといわれ、大変良くできた女性であった。

・明智光秀は1528年に美濃国(岐阜県南部)に生を受けた。しかし1556年に明智城が落城し、越前丸岡(今の福井県坂井市にある称念寺)へ身を隠した。逃れる途中「油坂峠」で、身重の「煕子」を背中に背負い、這い蹲り峠を越えた話や、「煕子」は、疱瘡によって 顔から胸まであざが残ったにもかかわらず、生涯「煕子」だけを愛した「光秀」の心の優しさを知る。

・その後朝倉義景へ仕官し、一乗谷から小さな山をひとつ越えた東大味に居を構えた。一般的には明智光秀は主君織田信長を本能寺の 変で討った「逆臣」の汚名を背負っているが、実は光秀は民政に優れた人物で、この東大味でも民衆から慕われ義理人情に熱い男だっ た。光秀没後も明智神社を作り長きに渡り東大味の人たちに祀られている。この地では『信長の一向一揆掃討から村を守ってくれた恩義ある偉人』として明智屋敷跡に住む三軒の農家が遺徳を偲んで「光秀の木像」をひたすら守り続けてきた。


・なぜ、織田信長を討ったかについて
怨恨説、恐怖説、朝廷説、イエズス会説などいくつかあるが・・・
朝廷(天皇・公家)をないがしろにしたり、仏教を大弾圧する一方、新知識・武器などを採り入れるためイエズス会(実はアジアの拠点として日本征服の野望を持っている)のスポンサーとなっている信長に危険を感じる勢力が、丁度他の有力な信長の武将の軍勢は北陸、関東、中国、四国の各方面に出払っており、近くで唯一大軍勢を持った光秀と結びついたと想像できる。

・「光秀」は、山崎の戦で「秀吉」に破れ、京都の「小来栖」で土民に襲われ横死したと伝わるが、実際は違う。近年の研究結果によると、京都の「妙心寺」で時世の句を読んで切腹したといわれる。

 順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元
(順逆二門に無し 大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来れば 一元に帰す)『明智軍記』


・大河ドラマは無理かもしれないが、数回シリーズの「光秀」を主人公にしたドラマを作成・放映して欲しい。



経歴:中島道子さんは、福井県坂井市三国町に生まれ、長い教員生活の後、上京し作家生活に入り、今年で25年の節目を迎えられまし た。今回、待望の復刊を果たした「岩佐又兵衛 怨念の絵師」ほか、明智光秀、松平春嶽、松平忠直など、福井にゆかりの歴史上の人 物を題材にした歴史小説を多く執筆し、現在も講演会活動などを精力的にこなしている。