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偕行社総会・記念講話  控え 
  平成26年10月10日  
  西宮 正泰  53期 
                                                      
  日本の心・『万葉集』
始めに 万葉集について、話をせよと、この様な機会を与えて頂いたことは、誠に光栄に思います。
私は学者でもありません。一市民として万葉集の魅力に捕われ、ライフワークとして親しんできました。先年戸塚編集長のご配慮により、偕行誌に一年間『万葉集探訪』と題し連載させて頂き、異色の記事として聊か関心を呼び、完結後一書に纏め私としては、よい卒寿記念となりました。
後述しますが私の故郷が、万葉集ゆかりの土地で、小学生の頃から万葉に親しんだ環境にありました。 
万葉時代とは
 『万葉集』が編集された時代即ち「万葉時代」は飛鳥時代と奈良時代の大部を云います。
千四百年前、34代舒明天皇〔天智・天武の父〕の即位で万葉時代の幕明けとなる。
  大和には 郡山〔むらやま〕あれど とりよろう 天の香具山登り立ち国見をすれば
 国原は  煙立つ立つ 海原は 鴎立つ立つ うまし國ぞ あきず島 大和の国は
 舒明天皇
この歌は天皇の国土支配を寿ぐ歌。雄略天皇の歌と共に万葉の劈頭を飾る国見の歌である。
大化の改新と律令体制の成立
 35代皇極天皇時代、中大兄皇子〔後の天智天皇が中臣鎌足と相謀り蘇我氏の専制を廃し、中央集権国家を建設し、百済救援に失敗したが、防人制度〔新羅侵攻に備え〕を制定し、近江に遷都、38代天智天皇として即位し改新政治が進められた。
40代天武天皇は、飛鳥で即位され、天皇を中心とする力強い国家体制を作られた。
奈良時代
 43代元明天皇の和銅三年に平城遷都となる。此の頃遣唐使や進取の精神に富んだ留学生を派遣し盛んに大陸の文化を学ぶ。45代聖武天皇は、政治不安を鎮めるに鎮護国家を旨とする仏教興隆に力を注ぐ。全国に国分寺を、更に大仏建立に十年を費やし完成し盛大な開眼供養を行った。
 あおによしならのみやこは 咲く花の 薫うが如く 今盛りなり   小野老
 御民われ 生ける験あり  天地の 栄ゆる時に あえらく思えば  海犬養岡麻呂
『万葉集』の内容
 『万葉集』は七世紀後半から人世紀後半にかけて編集された我が国最古の和歌集である。
34代舒明天皇〔六二九―六四一〕から47代淳仁天皇〔七五八−七六三〕まで四代百三十六年の歌を集め、全二十巻・四五一六首に及ぶ。何人かの手によつて編集され、大伴 家持が最終の編集者とされる。作者は、天皇から庶民まで、あらゆる階層が含まれ研究者の説に依れば四五〇名に及ぶと言われる。 
 多くの歌を選択し編集する事業そのものは、文化水準の高さを示している。この選択の裏には、どれ程多くの和歌が作られたか、想像すれば、この時代の文化の裾野の広さを感じる。
アメリカの文学史家、ドナルド・キーン氏〔コロンビア大学教授・文化勲章拝受。日本に帰化〕は、西洋人の立場から、『万葉集』の話彙の豊かさ、天皇の国見の歌から、恋の歌、生活の歌まで、その内容の豊富さは、世界に稀である。「日本的詩情の最高の記念碑」で讃えている。
 
 万葉集は、日本人の魂のふるさとであり、どの歌を読んでも、魂を揺すられ、心洗われ、限りない歓びを感じます。質量の上に於いても、最も優れた歌集として、日本文学史上に、永遠に光を放つ「文化最高の遺産」であります。
 古来我が国には、言霊〔ことだま〕信仰があり、言葉には魂が籠ってると信じられている。
正に『万葉集』には、日本人の魂が宿り、今に伝わっているのである。
 
〔秀歌鑑賞〕
 銀〔くろがねも〕も 金〔くがね〕も玉も 何せむに 勝れる宝 子に及かめやも 山上臆良
   子を思う歌、これほど端的に屈託なく人間の情愛を歌った例はない。 
 旅人の 宿りせむ野に 霜降らば わが子羽ぐくめ 天の鶴群      遣唐使の母
   難波を立つ遣唐使のわが子を見送って歌った。母性愛の表れた最上の歌。
奈良時代、遣唐使は十八回も派遣され、遭難の危険に曝されたていた。 
私と『万葉集』との出会い
 大伴家持は、聖武天皇の時代、越中国司として赴任し二九才から五年間在任した。当時の越中は、能登四郡を併せた大国であった。
国府は伏木の高台にあり、北に奈古の浦を見下ろし、東南には富山平野を前景とした秀峰・立山連峰を見はるかす景勝の地、家持は越中の自然の風景に限りない感動を味わった。伏木は明治時代までは、私の生まれ故郷・新湊市【現射水市】の一部であった。富山湾に秀峰立山連峰を見晴らかす景勝地で海の無い奈良から赴任した家持の心を捉えた。新湊の古名は「奈古」漁師町で海岸は奈古の浦と称し、家持がこよなく愛し馬で毎日散策を楽しんだと言う。 
東風〔あゆのかぜ、方言〕いたく吹くらし 奈古の海人の 釣りする小舟 漕ぎ隠見ゆ 大伴家持
 今でも同じ目の当たりに見られる風景が、家持が歌っていることに興味を抱き、万葉に親しむ切っ掛けとなった。あゆの風は、現在も使っている方言で、家持は方言を歌に読み込んでことに深い感銘を覚える。
 なお伏木港は、59期航空士官候補生千十五名が、昭和20年操縦訓練を満州で実施することになり、出発した懐かしい港であったと聞く。 

海ゆかば考
 大伴の遠つ神祖のその名おば 大来目主と 負い持ちて 仕えし官 海行かば 水浸く屍 山行かば 草蒸す屍 大君の 辺にこそ死なめ 顧みはせじ と言立て 丈夫の 清きその名を 昔より 今の現に 流さえる 祖の子等ぞ 大伴佐伯の氏は 〔抜粋〕
天平勝宝元年〔七四九〕都より使者が到来し、二月陸奥の國で黄金が算出され、聖武天皇は大変喜ばれ詔書を発せられた。その中で大伴家の祖先の功績に触れ、「海ゆかば」の家訓まで引用し、益々の忠勤を求められた。家持は感激に身を震わせた筆を取った。なお「長閑には死なじ」を「顧みはせじ」と極めて積極的な言葉に改めた。そのことによって、一挙に鮮烈な詩に生まれ変わったのである。
 昭和十二年国民精神強調週間が制定された際、そのテーマ曲とし、信時潔の荘厳曲がつき名曲「海ゆかば」が出来て、国民に多く歌われた。
防人歌
 家持はその後、兵部少輔として難波で、防人統括の任にあり、防人歌を収集した。 
 今日よりは顧みなくて 大君の 醜の御楯と 出で立つわれは     火長今春部与曽
 父母が 頭かき撫で 幸〔さ〕くあれて 言ひし言葉ぜ 忘れかねつる 丈部稲麻呂
 昭和の防人として、多くの若者達が、国の為一身を捧げた赤心が、万葉人の心に通ずるものを強く感ずる。
 
結論。今何故『万葉集』か
『万葉集』の尊さ、率直な雄大な歌風、純朴、真実の心、どの歌を読んでも、心洗われ、限りない歓びを感じる。正に「日本の心」である。
英国人がシエークスピアの作品を、ドイツ人が、ゲーテのフアーストを必読とする様に、是非日本人は、今こそこの世界に誇る民族古典を必読とし、日本の日本人のアイデンティテーを取り戻さねばならない。〔了〕