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首山堡回想

   
生徒監  西宮正泰(東幼38期)


「たちばな」  
平成15年4月10日 第57号

歩50アルプス連隊

 私の原隊は、松本歩兵第50連隊である。

 首山堡との関わりは、昭和16年関特演により、第29師団隷下に入り遼陽に駐屯することによる。師団長は高品彪中将(54期高品武彦君父君)である。

  連隊は明治38年創設、「アルプス連隊」の別称あり、年中行事のアルプス登山で、乗鞍山頂にはためく軍旗(旗手野口美喜雄少尉52期)は、少年倶楽部の口絵を飾ったことがある。

 私は昭和15年5月任官して間もなく連隊旗手を命ぜられた。昭和16年4月渡満の為市民挙げての歓呼の声に送られ、栄光の軍旗を奉じて行進した感激は今も脳裏から消えない。
            
西宮聯隊旗手と安藤閣下


余談であるが、松本最後の軍旗祭に初代連隊旗手・安藤利吉中将16期がわざわざ軍旗にお別れに来隊された。先輩の軍旗を尊崇される心に強く打たれたものである。







渡満し遼陽に駐屯

 渡満して錦州に仮駐屯し、待望の新兵舎に入ったのは8月21日であった。
 
  この新兵舎は遼陽南西の地、首山堡と遼陽市街の中間にある平坦な畑の中に造られていた。思えばこの遼陽の地は、日露戦争の聖地である。連隊長緒方敬志大佐26期は、先ず幹部に対し、橘軍神の精神を生かすように特に訓示された。連隊長は寡黙重厚型の武人、誠実で部下を信頼し正に将校団の慈父と慕われた。
 
  遼陽の地はかっての遼の古都として、その面影は美しい白塔や周囲十数キロに及ぶ城壁に偲ばれた。兵営の東方、平地の中になだらかな山容を見せているのが、北大山、首山堡の一連の山々で、空には鞍山製鉄所の黒煙が勢いよく立ち昇っていた。


「橘精神」合言葉に

 日露両軍が雌雄を決した遼陽会戦の華は正にこの地の争奪で、軍神橘中佐が戦死した地は目の先にある。戦勝を記念して建てられた顕忠碑が首山堡山頂に高々と立っていた。その山裾から兵営に続く台地が演習場とされ、先輩の尊い血の跡で「橘精神」を合言葉に訓練が始まったのである。
 
  我が第29師団は関東軍の戦略予備として軍の幹部教育の実験部隊と位置付けられ、昔第10師団が苦戦した早飯屯の古戦場はソ満国境の地形に似ているので、ソ連陣地を模して一大築城され、後に統軍台と命名され関東軍の対ソ戦法のメッカとされたのである。梅津軍司令官も度々演習視察に来られた。


8月30日の払暁に

 私は昭和17年5月第9中隊長を拝命した。大隊長は鈴木大和少佐44期である。この頃士官候補生57期、諏佐道太郎君以下4名隊付となり、私が訓育中隊長を命ぜられた。

  橘中佐の攻撃の8月30日同時刻に、中隊は首山堡に向かい払暁攻撃を敢行し、強い感動を与えたことは今も語り種となる。諏佐君から先日隊付当時の教練手簿が見つかったとコピーが送られて来た。曰く「隊附を顧みて(中略)橘山に統軍台にまた107高地岩山に、遠くは太子河に突撃せしは幾度ぞ、総てが貴き教訓として懐かしき思出生涯忘れざらん。忠霊塔の下に精進した感激もて本科に邁進せん」と。


名幼に奉職も因縁

 橘精神の聖地での訓練は、私を始め幹部兵にとって実に感動的であり、中隊長として悔いのない充実した一時期であった。後に橘中佐ゆかりの名幼に奉職することになったのも因縁というほかはない。私は昭和18年1月予科区隊長として懐かしい遼陽の地を去ることとなる。


原隊は玉砕の悲運

 最近遼陽を訪問した慰霊団【注】によれば、兵営や隣接の歩兵38連隊や、それに続く陸軍病院と広大な敷地は、跡形もなく、工業団地に変わっていたという。つわものどもの夢の跡か。
 
  その後南太平洋方面の戦況急迫を告げ、師団主力はグアム島、連隊はテニアン島で「太平洋の防波堤」として玉砕の悲運となり、痛恨の極みである。

【注】57期中国慰霊碑巡拝記(57期諏佐道太郎君)・日露戦跡視察記録(名幼48期松永太君)


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