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「偕行」平成24年3月号掲載
(同台経済懇話会の靖国神社参拝後の正月例会における講演要旨)

ミンガラドンの弔砲
勇壮無比な行動に感動した敵英軍が軍隊葬の礼を以って遇した物語
西宮 正泰  53期
厳かな英国陸軍葬 
 ビルマ〔現在名ミャンマー〕・ラングーンのミンガラドン飛行場において、厳粛な陸軍葬が行われ、19発の弔砲が響き渡った。英国兵士が最も名誉としている陸軍葬の主は、何と日本航空将校山本金吉である。
 
山本金吉中尉とビルマ航空撃滅戦
 山本金吉(53期)は、昭和15年、航空士官学校を卒業、ひき続き明野飛行学校を卒業し、10月名門77戦隊に所属、16年、開戦時は南部仏印に展開し、12月8日不法に攻撃して来たタイ空軍戦闘機3機を撃墜した。その後タイ国に進駐し、ビルマ航空撃滅戦に参加した。
 
ラングーンへ進撃
 ラングーンには、日本軍のビルマ進撃を阻もうと数万の英国軍が頑強にたて籠っていた。昭和17年1月28日、わが九七式戦闘機群、目指すはラングーン上空。戦隊長吉岡洋少佐機を囲み、総数30機、先頭は第一中隊9機、その右後上方に松田中尉指揮の第二中隊9機、その中隊第二小隊長として山本中尉が3機編隊を率いる。更に左後上方に第3中隊の9機が控え、上空をを援護しつつ、堂々たる態勢で密雲の中を進む。吉岡戦隊長の指揮で降下姿勢に移ったとき、突如として英軍の新鋭機の奇襲に会った。山本中尉は、敵1機を血祭りに挙げ、二番目の目標を狙っていたが、3機の敵を迎えて撃ち続ける隊長機のすぐ後ろに忍びよる敵機をめがけて急降下猛射して隊長機を救った。そのとき山本中尉機のエンジン付近からチロチロ悪魔のような炎が見えた
 
山本機の最後
 帰投燃料ぎりぎりまできていたので、吉岡戦隊長は、戦線離脱を命令したが、遂に4機が帰らなかった。
 後に小畑英良第五飛行師団長より授与された『感状』には
「而シテ愛機敵弾ヲ受ケテ空中戦闘殆ド不能ニ陥ルヤ剛毅不屈ナル中尉ハ黒煙ヲ曳キツツモ敢然単機低ク「ミンガラドン」飛行場ニ突進シ熾烈ナル地上放火ヲ冒シ在地敵機ヲ索メテ反復銃撃ヲ加フルコト実ニ七回敵爆撃機三機を炎上セシム 既ニシテ弾丸尽キ愛機モ亦遂ニ火ヲ発スルニ及ビ従容機ト共ニ身ヲ敵中ニ投ジテ壮烈ナル自爆ヲ遂ゲタリ」
と記述された。享年22才。
 
戦い終わり40日後の吉岡戦隊
 3月8日、占領したミンガラドン飛行場に降り立った吉岡戦隊は、打ちのめされた沢山の英国機の残骸の中、自爆した山本機を発見、胴体の一部に見られる機体番号、焼けた発動機の番号から、正しく山本中尉機と確認されたが、中尉の遺体は見つからなかった。ラングーン市内で発見した英字新聞『ラングーンカセット』により始めて真相を知った。
 その第一面に詳しくおごそかな陸軍葬のことを報道されていた。
 花輪をかかえて進みでた飛行場隊長ワッセン大佐は、「ヤマモトのような勇敢な戦士は世界空戦史上にも、稀であろう。このようなパイロットこそ、わが国にも出現してほしい戦士である」と。更に論説には、「日本空軍将校ヤマモトは、自分の機体に損傷を受けながらなお闘志を捨てず、連続7回にわたる攻撃を以って、3機を損傷せしめ、火を噴いて更に格納庫めがけて自爆、壮烈な最期を遂げた。これこそ、英国の誇りとする騎士道精神であり、かかる勇敢なるパイロットは、世界のどこにも見当たらないだろう・・・」と付け加えてあった。
 
エドワード教会での対面
 神父の案内で墓地に行き、木の香も新しい十字架にヤマモトと名前が記され、遺体は全身包帯に包まれ立派な棺に納められていた。その前に誰が捧げたのか、ジャスミンの白い花が、薫り高い匂いを漂わせているのを見て、吉岡隊長以下感涙に咽んだ。
 『感状』の結びは「宜ナル哉勇壮比類ナキ此ノ行動ハ深ク敵軍ヲ感動セシメ中尉ヲ遇スルニ軍隊葬ノ禮ヲ以テシ厚ク之ヲ葬ラシメタル中尉ノ不屈不撓斃レテ已マザル氣迫ト見敵必滅眼中敵アリテ生死ナキ闘志トハ実ニ我ガ陸軍戦闘飛行隊精神ノ発露崇高ナル軍人精神ノ精華ニシテ武功真ニ抜群空中戦士の亀鑑タリ 仍テ茲ニ感状ヲ授與ス」と賞賛してある。

結び
 靖国神社にお参りする度に走馬灯のように同期生の神々が浮かび崇高な気持ちに浸るが、今年は特に山本金吉のことが思い出された。真に軍人精神に徹した武人、我らの誇りである。
 そして敵ながら、さすが英国軍の騎士道精神にもとづく処置も清々しい。
 山本金吉は津中2年から東京幼年学校に入学。戦友からは、几帳面の権化と言われていた。
 東幼在校中の阿南惟幾校長の教え「勇卑の差は少なり。然れども責任観念の差は大なり」を見事に実践した。
(注)山本金吉の弟光彦氏は56期航空。
(参考資料)53期編『鎮魂』『万世に燦たり』。小学館『中学生の友一年。昭和36年10月号』。光人社・田形竹尾著『戦闘機操縦十年の記録』