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(偕行 H26年7・8月号)

陸軍と軍旗

西宮 正泰 53期

 陸軍においては、軍旗は天皇の分身として崇められ、聯隊団結の精神的支柱であった。その軍旗について日本陸軍の沿革を含め考察したい。編集委の求めにより、私個人の記憶も併せた。

陸軍のあけぼの
 大政奉還の後、慶応3年12月(1868年1月)、王政復古が宣言されて、新政府が成立し、軍事の大権は天皇に帰した。然し間もなく、慶応4年1月、鳥羽伏見の戦いは戊申戦争に拡大した。
 天皇は仁和寺宮嘉彰親王(のち小松宮彰仁と改名)を軍事総裁・奥羽征討総督に任命し、全国を平定した。この時はまだ天皇直属の国軍はなく、総督は諸藩の兵を指揮したに過ぎないし、新政府の軍事組織も極めて弱体であった。

軍の中央機構
 慶応4年1月、新政府内に軍部の機構として海陸軍科がおかれたが、間もなく、軍防事務所、軍務官、兵部省と慌ただしく改組・改称した。
 兵部省は開設時京都におかれたが、直ぐに明治2年12月、東京、皇居門外の鳥取藩邸(三宅坂)に位置した。初代兵部卿は嘉彰親王で、それを補佐する兵部大輔に大村益次郎が任じられた。大村は当時としては珍しい近代兵術思想の持ち主で、陸軍軍制の基本を定めた功績は大きい。
 明治2年6月、各藩は版籍奉還を行ったが、なお相当大きな勢力を持っていた。新政府が実力を持ち、各藩を統制するには、まず強力な天皇直属の軍隊を持つことが必要であった。
 明治3年8月、欧米の軍事視察を終えて帰朝した山県有朋・西郷従道らが兵部省に入って、10月政府は、各藩ごとにバラバラであった兵式を、陸軍は仏式、海軍は英式を採用することに統一し、鋭意兵制の改革を推進した。

陸軍の創設・御親兵と鎮台制
 明治4年7月、廃藩置県を断行、8月、各藩の士族兵を解散し、志願者を(壮兵という)東京・大阪・熊本・仙台の4鎮台に充当した。明治5年、全国徴兵の御詔勅が下り、国民皆兵となる。名古屋・広島を加え、6管区とした。

軍旗の親授
 明治7年、近衛及び各鎮台は、聯隊の編成を整え、1月23日、近衛歩兵第1・2聯隊に日比谷操練場で初めて軍旗(俗称・聯隊旗)が親授された。
 明治天皇は、聯隊長が玉座の前に進むと壇を降りられ、
「近衛歩兵第一聯隊編成成ルヲ告グ仍テ今軍旗一旒ヲ授ク汝軍人等協力同心シテ益々武威ヲ宣揚シ以テ国家ヲ保護セヨ」               
との勅語を賜い、式部長官の捧げる軍旗を執って、手ずから聯隊長に授与された。聯隊長は謹んで拝受したのち  
「敬テ明勅ヲ奉ス 臣等死カヲ尽シ誓ツテ国家ヲ保護セン」        
と奉答した。その後も、歩兵・騎兵聯隊が編成されると、この要領で軍旗授与式が行われた。          
 終戦までに歩兵聯隊409旒、後備歩兵聯隊57旒、騎兵聯隊31旒が親授された。               

軍旗親授の意義           
 明治天皇御製に          
  丈夫に旗を授けて 思うかな   
  日の本の名を 輝かすべく    
とあるように、聯隊に軍旗が親授されるのは天皇自らの統率を意味する。わが国では古くから、天皇統率の印として錦旗、あるいは節刀が授けられる習わしがあり、天皇親征の表徴とされていた。軍旗も同様に、天皇自らその聯隊に親臨していることを示し、天皇の分身的存在とされて崇めたのである。それゆえ、軍旗に対する軍隊での扱いば荘重そのものであった。      

歩兵第50聯隊の創設と軍旗拝受    
 私の原隊、松本歩兵第50聯隊は日露戦争さ中の明治38年(1905)3月動員下令、仙台・東京で編成され、4月15日、軍旗を拝受した。旗手、安藤利吉少尉(16期、後に大将)が護衛下士官4名と共に参内、旗手のみが寺内正毅陸軍大臣に引率され、正殿に進み、大元帥の正装で出御された天皇が、お手ずから軍旗を大臣に勅語と共に授けられ、大臣は旗手に渡された。
 宮殿退出後、我が軍旗は上野駅出発、翌日、仙台駅に到着した。駅頭には聯隊長、向井斉輔中佐の指揮する聯隊が堵列、お迎え申し上げた。聯隊は軍旗を奉じて市内を行進、宮城野原で将兵は軍旗に対して分列行進を行い、忠誠を誓った。
 聯隊はその後、樺太占領、台湾守備。北韓守備に任じ、長野県松本市の市を挙げての招致により、明治41年(1908)、松本市の新兵舎に入った。
 大正にはシベリア出兵、昭和になって済南事件、満洲事変と、ことあるたびに動員された。昭和12年7月、支那事変が始まると大陸に転戦した。

軍旗が歩兵・騎兵聯隊に限られた理由
 由来、戦闘は歩・騎兵の白兵戦闘によって勝敗を決するとされ、軍の主兵といわれてきた。砲・工、その他の兵科は支援部隊であるということで、歩・騎にのみ授けられたものかと思われる。その後に時代の進運により戦いの様相は変わっても、この伝統は変わらなかった。

歩兵聯隊と衛戊地
 歩兵聯隊は、戦時は独立した戦闘単位部隊であり、平時は衛戍地(軍隊が長く駐屯している地)を代表している部隊で、聯隊長は軍事面ではその県を代表する存在であり、聯隊は県の国防の中枢であった。
 こうして聯隊は県民の信頼と敬愛を集めてきたが、軍旗もまた、単なる聯隊の象徴に留まらず、全県民の表徴として「われらの軍旗」となっていた。
 聯隊の秋季演習は、年中行事として県下の各地で次々と行われるのが恒例となっているが、軍旗を拝する機会の少ない町村から、是非演習を当地でと、陳情が引きも切らぬ状況であった。
 後に私が旗手を務めた松本歩兵第50聯隊は、昭和16年に満洲駐屯が決まった前の最後の耐寒演習を、聯隊長の意向で、衛戍地に近い北信や松本平ではなく、日ごろあまり軍旗を拝する機会のない諏訪・伊那地方に選定された。歌舞伎で有名な高遠町で民宿したが、町民は軍旗を拝するのは初めてということで、町を挙げての大歓迎を受けた。さらに行軍中、各材の中心に差し掛かると、当分の別れを配慮した聯隊長の指示で、軍旗は行軍中覆いを脱して堂々と行進し、村人の歓呼を受けた。

軍旗祭
 毎年、軍旗親授を受けた日を聯隊の記念日として軍旗祭が行われ、聯隊の極めて大切な行事であった。当日は営内が開放され、営庭は市民で埋め尽くされて、軍旗は部隊とともに祝福された。
 
松本の最後の軍旗祭の分列 西宮旗手 

 恒例として全員軍装して軍旗に対し分列行進を行い、殉忠を誓った。終了後、模擬店や余興などで市民と楽しく交歓するのである。
 旗手が軍旗を捧持する行事は、この松本の最後の軍旗祭の他に、陸軍始め・紀元節・陸軍記念日(3月10日、奉天会戦勝利の日)・天長節等々、毎度聯隊長の式辞から分列行進の終わりまで、直立捧持2時間は普通であった。

足曳の歌(御製に対する奉答歌)
あしびきの山辺どよもす
砲の大の煙の中に著く
きおえる旗はかしこしや
わが大君の御手ずから
授け給える御戦
(みいくさ)の印の旗ぞ
我が輩
(とも)の軍(いくさ)の神ぞ
我が輩の軍の神と仰ぎつつ
進めや進め丈夫の輩
 この歌は、先の「旗を授けて」の御製に対する奉答歌である。軍旗の下での功名は天皇御馬前での手柄であり、軍旗の前での戦死は御馬前での散華とされ、軍旗の行くところ、生死を超越して戦うことが無上の光栄とされた。

私の聯隊旗手拝命
 私ども53期は、昭和13年5月、予科士官学校を卒業、私は歩兵第50聯隊隊付となり松本で隊付勤務を終え、9月1日、士官学校に入校となる。
 当時、歩兵第50聯隊は軍旗を奉じて大陸に作戦中のため、私の隊付したのは留守隊であり、留守隊長は後のアツツ島守備隊長、山崎保代中佐であった。聯隊は昭和14年12月凱旋した。
 信州の兵は健脚を誇り、毎年夏に軍旗を奉じてアルプス登山を敢行、「アルプス聯隊」の愛称があった。前任の野口美喜雄旗手52期が乗鞍山頂で捧持した軍旗はためく写真が、少年倶楽部の口絵を飾ったこともある。
 私どもは、昭和15年2月、士官学校を卒業し、見習士官として着任して初めて軍旗を拝した。聯隊長は緒方敬志大佐26期。5月1日任官、私は9月1日付で聯隊旗手を命じられた。弱冠21歳であった。

聯隊旗手の任務
 旗手は毎年、新任の少尉から選ばれ、軍旗捧持の大任を担う名誉の聖職であり、将校生活上、最高の光栄と感じ、最も緊張した思い出深い勤務であった。
 旗手は気持ちとしては24時間、常に軍旗守護の任が頭から外れない。普段は聯隊本部で副官の補佐官として勤務し、聯隊長が出張される時は秘書官として随行するのであるが、その時以外は何時なりとも在隊することとしていた。下宿も聯隊から徒歩5分の地点に選定し、旗手の間は日曜と雖も外出はしなかった。
 文字通り斎戒沫浴し、特に軍旗出御の行事がある1週間前から、体調を整えることに努めた。前述のように式典には2時間ほどの直立不動の姿勢であるから、体調・体力の万全の保持が喫緊である。
 軍旗は聯隊長室に安置され、24時間衛兵が交代で護衛している。護衛の下士官兵は私の所属する第1中隊から、最優秀の人たちが選抜された。
 軍旗に触れるのは旗手だけで、たとえ破損してもみだりに修理することは許されず、聯隊創設時に授与されてから不易、唯一無二の存在であった。
 私の最初の公式行事捧持は翌昭和16年1月8日の陸軍始め。松本の冬は寒く風が強いから大変緊張したが、50聯隊の軍旗は歴戦で旗面が三分の一ほどしか残っておらず、それほど力を要しなかった。福田和也の石原莞爾伝『地ひらく』によると、竜山の65聯隊は野戦に出ていないから、軍旗は健全で重さ30キロ、強風の日の荷重は2百キロに及び、石原少尉は軍旗を捧じたまま地面に叩きつけられたとある。旗手が全て石原少尉と同じ目に会うのではなく、歴戦の軍旗は殆どが縁と房だけになっている。
 聯隊旗手の最高の晴れ舞台は前記の軍旗祭で、営庭に群れる市民から軍旗に注ぐ崇敬の熱さを感じた。
 お仕えした緒方聯隊長は、熊本聯隊の大隊長として南京攻略で武勲を立て、金鶏勲章に輝く古武士のような方で、謹厳・寡黙・うちに温情を秘め、部下を信頼し、将兵の信頼厚い方であった。
 正月に新兵の入隊式があり、聯隊長は私に訓示の起案を求められた。懸命に作文はしたものの、真赤に修正されるものと覚悟して提出したところ、1字1句も直さず、そのまま聯隊書記に清書を命じられた。新品少尉の拙い作文を、そのまま採用された聯隊長の雅量と信頼に感激したことは終生忘れない。

関特演により渡満
 昭和16年春、聯隊はいわゆる関特演(関東特種演習)により14師団
 
 安藤将軍と西宮旗手
を離れて29師団(師団長高品彪中将)の隷下に入り、満洲に移駐することになった。
 そのため、この年の軍旗祭は3月10日の陸軍記念日に繰り上げ挙行された。この時に前述の初代聯隊旗手、安藤利吉中将(後に大将)がわざわざ、軍旗にお別れに来隊された。将軍が深々と低頭し瞑目して感慨に耽っておられる姿を拝し、長老の軍旗を尊崇されるお姿に感銘すると共に、旗手であることの感動を新たにした。

4月18日、いよいよ聯隊は満州に出発となる。私は満開の桜の中を聯隊の先頭を軍旗を捧持して松本駅に向かったが、沿道から松本駅まで市民で溢れ、軍旗を一目でもと押し合う群衆に、激励と別離の熱気を感じた。当時皇軍は連戦連勝していたから、満洲の野に翩翻と翻るであろう我が聯隊の軍旗に市民は熱い期待を寄せて武運長久を祈ってくれたのであろう。だが、これが我が松本聯隊の軍旗と市民の永遠の別れになろうとは、誰が予想しただろうか。
 聯隊は大阪港でも歓呼の声に送られて出航、24日、大連港に上陸した。錦州での3ヵ月の仮駐留は満洲軍閥の大きな屋敷に聯隊長と私と当番兵が宿泊、8月、遼陽の新兵舎に入った。
 第28、29の両師団は、関東軍の戦略予備の位置付けにあり、聯隊は対ソ戦の訓練に明け暮れた。首山堡を始め、日露戦争の古戦場をソ満国境になぞらえて、格好の訓練場であった。
 私は昭和16年9月、旗手を後任の池上宗直少尉54期に申し送った後も、聯隊本部付として勤務し、翌17年5月、第9中隊長に、18年1月、予科士官学校区隊長を拝命し軍旗にお別れすることになる。

軍旗の最後・50聯隊の場合
 大東亜戦争勃発、29師団は中部太平洋方面に転用となり遼陽を後にし、19年3月15日、聯隊はテニアン島の守備についた。
 19年6月、米軍はサイパン島に来襲、7月1日よりテニアン島を攻撃し、22日に上陸、激戦となった。8月1日、緒方聯隊長は作田宣三旗手56期に軍旗奉焼を命じ、聯隊本部の洞窟の中で、「今夜最後の突撃を行う」と申し渡した。軍旗小隊の服部國忠軍曹は旗竿が焼けたのを目撃し、また本部書記の吉田辰雄曹長が焼け跡に穴を掘って埋めたと聞いていた。
 服部氏は運よく生還し、戦後現地を訪れては慰霊祭を行いながら、軍旗奉焼の地点を確認したいと、30年の年月の後に、遂に聯隊本部の洞窟を発見、奉焼当時そのままの灰を確認して持ち帰ることが出来た。昭和51年9月、「50聯隊会」主催、多くの戦友たちが松本護國神社の社前に集い、軍旗遺灰の「奉還式」を厳粛に執り行った。
灰になったといえ、軍旗は永遠に護國神社に神鎮まりましている。祖国の必勝を念じつつ命を捧げられた聯隊将兵の英魂は、軍旗の遺灰と共に祖国の平和と繁栄を祈っているに違いない。

参考文献 『図説陸軍史』森松俊夫
     『歩兵第50聯隊史』堀越好雄
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