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「偕行」平成20年2月号掲載
幻の文書 

阿南惟幾東京幼年学校校長の
二・二六事件の訓話原稿


西宮 正泰  53期
                
 まえがき

 『萬世に燦たり』編集のご縁で、阿南惟幾将軍四男・惟正氏から戴いた書簡の中で初めてこの文書の存在を知った。「若しご希望ならば、差し上げたい」とのご意向を伺い、人手した次第である。
 二・二六事件が終結して間もない昭和11年3月12日、当時、東京陸軍幼年校の校長であった阿南将軍は、全校職員生徒を第一講堂に集めて、事件に対する所懐を述べ、事の順逆、命令と服従そして武士道を説き、生徒は自己の本分に邁進するよう烈々たる訓話を行った。この訓話を聞いたのは、3年生(37期、後陸士52期)120名、2年生〈38期〉1年生〈39期〉各150名であった。 当時私共は2年生、学年末試験の最中でこの年は珍しい大雪であったこと
を覚えている。
 阿南校長は、東幼校長に着任前侍従武官を4年間奉職され、陛下のご信任が特に厚かったと聞く。
 同期生澤田茂中将の「醜の御盾の精神に凝り固まった男」の評の如く、常に尽忠と責任感を説き、生徒に対する影響は極めて大きかった。
 この時は、日頃の温厚な、抑揚のある阿南調と違い、紅潮し声涙ともに下る強烈な訓話であり在校中最も心に残ったと皆斉しく回想するところである。
 今その全文を拝読し、改めて阿南将軍の「尽忠の至誠」に感銘するばかりでなく、終戦時「一死以て大罪を謝し奉る」の遺書を残し、拝領のシャツを着て、皇居に向かい、自ら武士道の古式に則り割腹して責任を取られた常節な行動は、正に聖将であり、今更頭が下がるのみである。
 
 尚同期森松俊夫君(軍事史研究家)に若干の解説を御願いした。



 「部外秘」 昭和十一年三月十二日
阿南校長訓話要旨 第四号

 帝都不祥事件に関する訓話

         東京陸軍幼年学校
 目  次

第一 国法侵犯軍紀紊乱
 一.重臣に対する観念
    例 大柿公と参議清恵
 二、長老に対する禮と武士道
    例 大石良雄
 三、遵法の精神
    例 吉田松陰と林子平
第四 最後の態度
 一、自決と服罪
 二、彼等の平
第五 背後関係
  例 欧州大戦独露軍の革命
第二 統帥権干犯行為
第六 結 言 
第三 抗命の行為
 一、服従の本義は不変なり
 二、将校の反省と教養
(筆者注・原文は片仮名旧書体)


 帝都不祥事件に関する訓話
         於第一講堂

 去る二月二十六日早朝、我陸軍将校の一部が其部下兵力を使用して国家の大官を殺害し、畏くも宮城近き要地を占拠せる帝都不祥事件は、諸子の已に詳知せる所なり。而して其の蹶起の主旨は現下の政治並社会状態を改善して皇国の真姿発揚に邁進せんとせしものにして憂国の熱意は諒とすべきも其取れる手段は全然皇軍の本義に反し、忠良なる臣民としての道を誤れり。以下重要事項につき訓話する所あらんとす

 

 第一、国法侵犯並軍紀紊乱

 単に同胞を殺すこと既に国法違反なるに、陛下の御信任ある側近並に内閣の重臣特に陸軍三長官の一人たる教育総監を殺害するが如きは、国法並軍紀上何れより論ずるも許すべからざる大罪なり。

一、重臣に対する観念
 仮りに是等重臣に対し国家的不満の点ありとするも、苟も陛下の御信任厚く国家の重責を負いたるものを擅に殺害駆除せんとするが如きは、臣節を全うするものにあらず、先ず陛下に対し誠に恐惶に堪えざる事なるを考えざるべからず。
 忠臣大楠公に尊氏上洛に処する対策用いられず之を湊川に遊撃せんとするや、当時に於ける国家の安危は、到底昭和の今日の比に非ざりしも、正成は尚御裁可に服従し、参議藤原清恵を斬るが如き無謀は勿論之を誹謗だにせず、一子正行に横井駅に遺訓す。言く国賊誄滅一族殉国の赤誠あるのみ。而して戦利あらず弟正季と相刺さんとするや「七度人間に生まれて此賊を滅ぼさん」と飽くまで大任の遂行を期して散りたるが如き、誠に日本精神の発露にして忠臣の亀鑑たるは言うまでもなく、責任観念の本義を千載の後に教えたるもににあらずや。自己の職責と重臣に対する尊敬とは此間によく味うを得べく、今回の一部将校の行為と雲壌の差あるを知るべし。

二、長老に対する禮と武士道
 重臣就中陸軍の長老たる渡邊教育総監を襲いし一部の如きは機関銃を以って教十発を発射し、更に軍刀を以って斬りたる如き陸軍大将に対する礼儀を辨えざるは勿論、其他高橋蔵相、斉藤内府等に対しても、一つの重臣に対する禮を知らず実に軍紀を解せず武士道に違反し軍人特に将校としての名誉を汚辱せるものなり。
 彼の大石良雄等四十七士が苦心惨憺の後、吉良上野介を誅せんとするや、不倶戴天の仇に対しても良雄は跪きて短刀を捧げ「御腹を召さるるよう」と懇ろに勧告して武士の道を尊び已むを得ざるを見て「然らば御免」とて首を打ち総ての場合に於て「吉良殿の御首頂戴」等いとも鄭重なる敬語を用いる所真に日本武士の大道に叶えるものと言うべし。今回の将校等殆ど全部が幼年校又は士官校に学べるものなるに、斯かる嗜みなかりしは、醜を千載に残すものにして、武夫の礼、武士の情を知らざるが如きは已に軍人として修養の第一歩を誤りたるものとす。諸子反省せざるべけんや。

三、遵法の精神
 動機が忠君愛国に立脚し其考えさえ善ならば国法を破るも亦已むを得ずとの観念は、法治国民として甚だ危険なるものなり、即ち道は法に超然すと言う思想は、一歩誤れば大なる国憲の紊乱を来たすものなり。道は寧ろ法によりて正しく行わるるものなりとの観念を有せざるべからず。 古来我憂国の志士が国法に従順にして遵法の精神旺盛なりしは吾人の想像だに及ばざるものあり。 吉田松陰の米船により渡航を企つるや其悩みは「国禁を犯す」ことなりき。故に此件につき佐久間象山に謀りしに象山は近海に漂流して米船に救い上げらるるは国禁を犯すにあらずとの断案を授けぬ。松陰大いに喜び以って大図を決行せしなりと傅う。又林子平が幽閉中、役人さえ密かに外出して消遣然るべしと勧告せしに
 月と日の 畏みなくはおりおりは
   人目の関を越ゆべきものを
とて一歩も出てざりきとぞ。先生の罪は自ら恥ずる所なく憂国の至誠より出たるにも拘らず尚且斯の如く天地神明に誓って国法を遵守せしが如きは、如何にも志士として国士として恥じざるものと謂うべし。此等忠臣烈士は仮令幕府の法に問われ、或いは断罪の辱めを受けしと雖も其奕々たる精神は、千歳の下人心を感動せしめ且つ世道を善導せる所以を思うとき、今回の事件が武人として吾人に大いなる精神的尊敬を起さしめ得ざるもの茲に原因する所大なるものあるを知るべし。
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 第二、統帥権干犯行為

 彼等一部将校は、徒に重臣等共の統帥権干犯を攻撃し、之を以って今回無題の一原因に数え、悲憤慷慨せり。然るに何ぞや、擅に皇軍を私兵化し、軍紀軍秩を紊乱して所属長官の隷下を離れ、兵器を使用し、同胞殊に重臣殺戮の惨を極め、剰え畏くも皇居に近き官庁舎を占拠せるが如き、全く自ら統帥権を蹂躙破壊せるものにして、其罪状と国の内外及将来に及ぼす悪影響とは、蓋し彼等の唱ふる重臣の過失に倍すること幾何ぞや迷妄恐るべきかな。


 第三、抗命の行為

 霞ケ関附近要地占領後自ら罪に服せざるは勿論、所属師団長以下上官の諄々たる説諭も帰隊に関する命令も全然耳を仮さず、或いは條件を附し或は抗命の態度を取る等軍紀を破壊せり。而して是等一部将校に率いられたる下士官兵の行動は、多くは真事情を知らず唯上官の命の儘に行動するもの多きも未だ其心理の詳細に至りては明らかならず。他日判明を待ちて研究する所あらんとす。但し今日の教訓として軍人の服従に関する心得中左の二項は特に肝銘しおかざるべからず。

一、服従の本義は不変なり
 服従の精神は依然として勅諭禮儀の條の聖旨に基き従来と何等変化なく「服従は絶対」ならざるべからず。
 今回の如き特例を以って服従に条件を附するが如きことあらんか、忽ち上下相疑うの禍根を生じ、軍隊統率軍紀の厳粛(訓育提要軍紀の章参照)に一大亀裂を与ふるものなり。深く戒めざるべからず。

二、上官特に将校の反省と教養
 上官たらんものは「上官の命令を承ること実は直ちに朕が命を承る義なりと心得よ」との聖旨を奉體し常に至尊の命令に代わりて恥じざる正しき命令の下に服従を要求すべきものにして猥りに「国家の重臣を殺せ」など命令するが如きことあらんか、啻に命令の尊厳を害い服従の根底を破壊するのみならず、将来部下の統率は絶対に不可能に陥らん。嘗て戒め置けるが如く「其身正不令而行其身不正令不従」(論語、訓話第一号の如く書きある書物あり)と。即ち服従の精神を繋ぐものは下にあらずして上官にあることを忘るべからず。故に将校たらんとする諸子は、今日より先ず其身を正しく修養を重ね部下をして十分の信頼を得しめ喜んで己に服従し命令一下水火も辞せざらしむる底の人格と見識とを修養することを第一義となさざるべからず。

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 第四、最後の態度

 事件最後の時機に於て遂に 勅令下るに至る。誠に恐慌に堪えざる所なり。如何なる理由あらんも一度勅命を拝せんか、皇国の臣民たらんものは、ただちに不動の姿勢を取り自己を殺して宸襟を悩まし奉りし罪を謝し奉るべきなり。然るに惜しむらくは彼等は、此期に反して尚大命すら君側の奸臣の偽命なりとして之の服せざるが如き、其間如何なる理由あるにもせよ寔に恐龍痛心に堪えざる所にして実に勅諭信義の御戒に背きしものと謂うべく、事茲に至りて彼等の心境に多大の疑問を残すに至り同胞軍人として遺憾至極とす。

一、自決と服罪
 我国にて自決、切腹等は武士が戦場等に於て已むを得ざる場合其名誉を全うせんが為取りしに始まり、己が国法を犯したるとき等は自ら殺す即ち罪を補うは御上に対し其道に背きし一種の謝罪を意味す。畢竟切腹は武士の面目を重んじたるものなり。己の行動が死罪に値するときは更に絞首火炙りにも値するやも知れず故に潔く服罪して処刑を仰ぐを武士道とせるが如し。是大石良雄の復讐達成後の覚悟及処置にても明らかにして万一にも死罪を免ぜられるる事ありとするも少なくも良雄と主税とは自決して罪を天下に謝すべきものなりとの信念を有したりしと聞く。是真の武士道なり。然るに今回の事件に際し、将校等が進んで罪に服するにもあらず僅か二名が自殺し一名未遂に終わりしのみなりしは、我武士道精神と相隔つること大なるものにして吾人は此際自決するを第一と考うるも一歩を譲りて若し我儘の自決が、陛下に対し奉り畏れ多しと感ぜしならは潔く罪に服すべきものなりと断ぜざるを得ず。

二、彼等の平素
 彼等の平素に於て人格高潔一隊の輿望を擔いつつありしもの決して之なしとせざるも、仄聞する所によれば、其大部は上官同僚にさえ隔心あり、隊務を疎外して本務たる訓練に専心ならず、軍務以外の研究に没頭し、武人として必ずしも同意し得ざる点多々ありしと。平素の人格高潔にして真に至誠人を動かし而も最後に潔く自決するか又真に大罪を闕下に謝せんが為従容進んで罪に服せしならんには少なくとも今回の挙は精神的に日本国民に多大の感銘を与うるものありしならんに、其平素の行為と最後の処置を誤りし点とに於て一段同情と真価とを失えりと言わざるべからず、夫れ天下を治めんと欲するものは、先ず其身を修むべしとは古諺に名示せられある所、深く思わざるべからず。


 第五、背後関係


 本事件の背後関係につきては、未だ確報を得ざるも、北輝次郎、西田税一派と密接なる連絡ありしものの如く、其大部が彼の『日本改造法案』を実行せんとするが如き主義に基けるにあらずやとの疑あり。果して然りとせば深く戒慎を要するものあり。彼の改造法案は、已に昭和二年頃一読せしことあり。其後も吾人の間には屡々話題に上りしものにして、其主旨が国家社会主義と言わんより寧ろ民主社会主義に近く、我国体の本義に一致せざるは何人も明かに認める得る所なるに、彼等一部青年将校は、其純真なる心情より徒に彼等を過信しよく之を熟読批判することなく彼等の主張に引きつけられしものならん。もし之に心酔せりとせば、将校として其見識殊に国体観念に於て研鑽と信念の不十分なるによるべく、寧ろ此点同情に堪えざるものあり。 以上の如き心境は羊頭を掲ぐる幾多不穏当思想の乗ずる所となり易く、彼の欧州大戦時に於ける独海軍及露軍の革命参加の経過より見るも明らかにして(例記載を除く)一歩を誤らば皇国皇軍を危険に導くもの之より大なるはなし。軍隊のたらんものは、自ら修養と研鑽とを積み、皇軍将校としての大綱を確実に把握し、何者も勤かすべからざる一大信念に生き、苟も羊頭狗肉の誘惑に陥るが如きことあるべからず。


 第六、結論

 以上は事件の経過に鑑み、比較的公正確実なる情報を基礎として生徒に必要なる条件につき説明訓話せるものにして、如何なる忠君愛国の赤誠も其手段と方法とを誤らは、大御心に反し遂に大義名分に戻り、勅諭信義の条下に懇々訓諭し給える汚命を受くるに至る。諸子は此際深く自ら戒め、鬱勃たる憂国の情あらは之を駆って先ず自己の本分に邁遂すべし。是れ忠孝両全の道にして各様述ぶる所は、此忠孝一本の日本精神に基ける千古不磨の鉄則なり。今回の事巷間是非の批判解釈多種多様ならんも、本校生徒たる諸子は堅く本訓話の主旨を體し、断じて浮説に惑わさるることあるべからず。
 (現代仮名使いと致しました。編集)

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二・二六事件の概説
       森松 俊夫 53期

 ニ・二六事件は、昭代早(1936)2月26日、皇道派の影響を受けた隊付将校らが兵を率い「昭和維新こ尊皇討奸」を掲げて起こした未曾有のクーデター未遂事件である。

 襲撃決意の背景
 革命的な国家社会主義者北一輝の『国家改造法案大綱』の影響を受け、所謂「君側の奸」を排し昭和維新断行のため、腐敗した政党、財閥、重臣の粛清、農村の腐敗救済、軍備の充実が彼等の共通したスローガンであった。

 決起の状況
 昭和11年2月26口早暁、近衛・第1師団の青年将校21名、下士官兵1千452名が突如決起して反乱を起こし、重臣、政府高官、東京朝日新聞社などを襲撃した。
 内大臣斉藤實、教育総監渡辺錠太郎を殺害、侍従長鈴木貫太郎、大蔵大臣高橋是清(同日死亡)に重傷を負わせた。首相岡田啓介は無事、前内大臣牧野伸顕は逃れた。
 決起部隊(のち反乱軍と呼ぶ)は、永田町付近や警視庁を占拠し、その内外の交通を遮断した。
 反乱の首謀者である青年将校等は、陸軍大臣官邸を占拠し、川島義之陸相と面会し、まず決起した目的は「内外重大な危急に際会し、元老、重臣、財閥、官僚政党等の国体破壊の元凶を除き、君側の奸匪軍閥を斬除して昭和維新断行への道をひらく」(決起趣意書による)と宣言した。 次に「陸軍大臣要望書」を提示して「陸軍大臣は事態の収拾を急速に行うこと、決起の趣旨を陸軍大臣を通じ天聴に達せしむること」を第一項とし、具体的に多くの要望事項を強要した。

 陸軍首脳の態度
 反乱軍に対する陸軍首脳の態度は優柔不断であった。参謀本部は、勝手に具や武器を使用した統帥の破壊者は絶対に許せないとし、強硬鎮圧の態度をとった。
 26日9時ころ、川島陸相が宮中に参内し、天皇に状況報告を奏上したとき、「今回のことは精神の如何をとわず甚だ不本意である、速やかに事件を鎮定せよ」といわれた。
 同日午後、宮中において開催の非公式の軍事参議官会議を開き、武力行使を避けて説得によって撤退させようという意見となり、5項目から成る「陸軍大臣告示」を作成した。
 この「告示」は、青年将校等の間では、決起の目的が達せられるかも知れないという暫しの期待感が流れた。


 海軍の態度
 一方、海軍の事件に対する反応は早く、断固鎮圧の方針の下、第1艦隊は、27日午後、東京湾内に進出し、陸戦隊は上陸した。

 戒厳令の発令
 陸軍は、26日午後、第1師管に戦時警備令が発令された。27日3時40分、戒厳令が公布された。警備司令部は、戦時の機能を発揮するため、参謀本部の課長以下を、戒厳参謀兼務とする強力な戒厳司令部となり、場所を九段の軍人会館に移した。

 その後の経過
 27日は、反乱軍将校に対し、各種の手段方法をもって帰順収容に応ずるよう説得、勧告に努めたが、これに従わず、反乱軍側は、昭和維新の大詔煥発を仰ぐことを要望していた。
 28日早朝、香椎戒厳司令官に対する奉勅命令が伝達された。反乱部隊を原隊に復帰させよという大命である。戒厳司令官はこれに基き、反乱部隊掃討の命令を下した(武力行使の時期は別命)。
 しかし、討伐開始前に武装解除を要求して説得を重ねることになった。
 戒厳司令官は、明日早朝から反抗部隊に対し武力を行使するに決し、指揮下各部隊に対し攻撃準備を命じた。

 結 末
 29日早朝、近衛・第1師団は包囲線に進出し攻撃を準備するとともに、市民を避難させた。この間反乱軍とくに下士官の帰順勧告を各種の手段を尽し、戦車、飛行機によるビラの撒布、ラウドスピーカーによる放送を実施した。
 9時、攻撃部隊の前進とともに反乱軍の下士官兵は逐次帰順し、将校たちは、陸相官邸に集合した。 その後、下士官兵は原隊に帰り、将校たちは陸軍衛戌刑務所に収容された。3月4日特設軍法会議が開設され、事件関係者の裁判が行われた。 野中四郎、河野壽大尉の自決以外、首魁として将校13名、民間人4名死刑となる。

 事件後
 二・二六事件の後、陸軍は派閥活動に関係のなかった人材を登用し、人事をI新し清新な気風をもって国防国策の推進に努めた。また粛軍の名目で軍紀を粛正し、急進運動を一掃し、加えて軍部大臣現役武官制を復活させた。

 阿南将軍の訓示を読んで
 「君側の奸」を除き聖明をひらくとする思想は誤りであると説き、統帥権干犯や抗命の行為は大罪であると懇切に十分な気魂をもって語られている。浮説に惑わされることなく、本分に邁進せよという教えであった。 この文献は、忠誠一途の阿南将軍を偲ぶ貴重な歴史資料である。

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