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左:傳 橘忠佐 月桂樹
右:傳 乃木保典 藤
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傳 橘中佐・名古屋陸軍幼年学校第二代校長 植樹 銘・月桂樹
   旌忠神社址北側
   

橘周太中佐:名古屋睦軍幼年学校第二代校長

東宮侍従武官を勤め名古屋陸軍幼年学校校長を歴任後、日露戦役に出師、第二軍静岡第34聯隊第1大隊長として遼陽の会戦・前山堡で戦死、明治37.8.31。軍神として崇められる。橘中佐は名古屋幼年学校の象徴で、敬仰の中心で職員、生徒の精神的支柱であった。月桂樹と橘周太中佐の関連についての由緒、伝承は不明である。

   
  
傳 名古屋陸軍幼年学校第一期生 乃木保典 植樹
    水練場跡北側

乃木保典:乃木希典大将の二男、名古屋(地方)陸軍幼年学校第1期生、日露戦役・二百三高地の激戦で戦死。一長男・勝典も旅順攻略戦で戦死。

この藤の木は旧名古屋陸軍幼年学校(長塀町)に植樹のものを移植したと伝えられている。

<乃木希典> 
陸軍大将、台湾総督を経て日露戦争で第三軍司令官として旅順を攻略、のち学習院院長、明治天皇大葬の日静子夫人とともに殉死。軍人であるとともに教育者で橘中佐と相通ずるところがあった。
   

※乃木将軍と橘中佐及び名古屋陸軍幼年学校との関係

乃木将軍がまだ青年将校であった頃に名古屋鎮台に勤務、また将軍の二男保典少尉は名古屋陸軍幼年学校の創立第1期生であった。その伝統を築き上げた一人でもあった。
したがって父親の乃木将軍自身も幼年学校に度々視察に訪れた。また、橘同大中佐が少尉で近衛歩兵第4聯隊の小隊長のとき、聯隊長が伏見官殿下、旅団長が乃木将軍(当時少将)と崇敬の的となっていた。橘周大少尉はこの乃木少将を心から敬仰し、言動を倣って修養したと言われている。