水師営の会見
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アジア歴史資料センター (日露戦争特別展より) |
明治37年6月から旅順要塞を昼夜不断、力戦難攻して翌年1月1日遂に占領、次いで1月4日午前11時、敵将ステッセルと乃木大将が、歴史的な会見を行った。
これは明治39年6月の文部省「尋常小学校読本」のために作詞され、同43年「尋常小学校唱歌」巻十に収められた。
<解説>佐々木信綱氏は1872年生。歌人・国文学者、長く東大で和歌史・歌学史・歌謡史・万葉集などを講じた。
上掲の水師営の会見の写真は有名である。これについての挿話が名幼会会報「たちばな」の57号(平成15年4月10日)の「こぼればなし」に載っている。
名幼48期2訓鶴屋一郎氏の寄稿によると以下のとおりである。
『水師営会見の写真はわが社のカメラ班』
『おなじみの「水師営の会見」記念写真は、私の(鶴屋氏)勤務する光村印刷(株)の写真班が撮影したことはあまり知られていない。当社の社史はこのことを誇りとして、かなりの分量の記述をしている。
明治37年2月、日露戦争が勃発すると、創業者光村利藻は海軍省に写真班の従軍願いを提出、10月に旅順方面の戦況撮影を委託された。また第3軍の旅順攻囲重砲兵隊付として第一線に進んだ。
翌38年1月5日、乃木大将とステッセル中将との会見後、水師営会見所の庭の棗の木の下で記念撮影が行われた。』
偕行社刊行「雄叫」に収録されている歌詞は、現代仮名遣いとなっており、本HPも当初それに従っていた。
ところが偕行会誌平成16年10月号に雄叫考「文部省唱歌『水師営の会見』に描かれた乃木大将のこと」(八巻明彦氏)によれば、作詞者佐々木信綱氏の鉛筆書き草稿に旧仮名遣いの原文の歌詞が紹介されている。
偕行軍歌の権威八巻氏に敬意を表して、ここでも歌詞をその旧仮名遣いに改めた。
作詞:佐々木信綱 |
一 | 旅順開城約成りて 敵の將軍ステッセル 乃木大將と會見の 所はいづこ水師営 |
二 | 庭に一本なつめの木 弾丸あともいちじるく くづれ残れる民屋に 今ぞ相見る二將軍 |
三 | 乃木大將はおごそかに 御めぐみ深き大君の 大みことのり傳ふれば 彼かしこみて謝しまつる |
四 | 昨日の敵は今日の友 語る言葉も打ちとけて 我はたたへつ彼の防備 彼はたたへつ我が武勇 |
五 | かたち正して言ひ出でね 『此の方面の戦闘に 二子を失ひ給ひつる 閣下の心如何にぞ』と |
六 | 『二人の我が子それぞれに 死所を得たるを喜べり これぞ武門の面目』と 大將答力あり |
七 | 両將晝食(ひるげ)を共にして なおもつきせぬ物語 『我に愛する良馬あり 今日の記念に獻ずべし』 |
八 | 『厚意謝するに餘りあり 軍のおきてにしたがひて 他日我が手に受領せば 長くいたはり養はん』 |
九 | 『さらば』と握手ねんごろに 別れて行くや右左 砲音(つつおと)たえし砲臺に ひらめき立てり日の御旗 |
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